「固い食物っていうのは、悔い改めさせるような厳しい教えのことよね」
あなたの教会でも、こんな風に教えられていませんか?
実は私も長い間、そう思っていました。でも、ある日のメッセージで「それは違う」とはっきり教えられて、目からウロコが落ちました。
今日は、意外と誤解されている「乳」と「固い食物」について、聖書が本当に何を言っているのかをお話しします。
よくある誤解
「固い食物=厳しい説教、悔い改めを迫る教え」 「乳=優しい教え、慰めの言葉」
こんな風に理解している方、多いのではないでしょうか?
でも、ヘブル書を読むと、全然違うことが書いてあるんです。
聖書が言っている本当の意味
ヘブル書5章11-14節を見てみましょう。
著者は「メルキゼデクについて話したいけど、あなたたちには説明しにくい。なぜなら、あなたたちはまだ固い食物を消化できないから」と言っています。
そして6章1-2節で、こう続けます:
「乳」とは:
- 悔い改め
- 信仰
- バプテスマ
- 手を置く儀式
- 死者の復活
- 永遠のさばき
これらは「キリストの教えの初歩」と明記されています。
つまり、悔い改めは「乳」の段階なんです!
「固い食物」とは:
- メルキゼデクの位に関する教え
- 旧約と新約のつながりの深い理解
- 神学的な深さを持つ教え
- 経験によって良し悪しを見分ける訓練を受けた人のための教え
分かりやすく言うと
「乳」: おばちゃんでも分かる基本的な教え
- 「イエス様が助けてくださる」
- 「祈りは聞かれる」
- 「神様は愛」
- 「悔い改めて信じなさい」
「固い食物」: ちょっと小難しい、神学的に深い教え
- メルキゼデクと大祭司職の関係って?
- 旧約の型と新約の成就の関係
- 目先の御利益とは離れた、でも知ったらもっと神様の深さが分かる教え
つまり、知的な深さの違いなんです。 道徳的な厳しさの違いではありません。
メルキゼデクの例
ヘブル書の著者が「固い食物」の例として挙げているのが、まさにメルキゼデクです。
メルキゼデクって、創世記にちょっとだけ出てくる謎の人物。正直、「で、何?」と思いませんか?
でも、この人物を通して、イエス・キリストの大祭司職の深い意味が分かってくる。旧約と新約がどうつながっているかが見えてくる。
これが「固い食物」です。
- 知らなくても救われます
- でも知ったら、もっと神様の深い計画が分かって恵まれます
- 知性も働かせて理解する教えです
「純粋なみことばの乳」との違い
ところで、1ペテロ2:2に「純粋なみことばの乳を慕い求めなさい」という言葉があります。
「あれ?乳は初歩じゃなかったの?」と混乱するかもしれませんね。
実はこれ、別の話なんです。
ヘブル書の「乳 vs 固い食物」: 内容の深さの段階 1ペテロの「純粋な乳」: 教えの質の純粋さ
「純粋な」というのは:
- 人間の伝統で薄められていない御言葉
- 人間の哲学で汚染されていない御言葉
- 混じり気のない、聖書そのものの教え
だから:
- 「純粋な乳」も必要
- 「純粋な固い食物」も必要
- どちらも聖書に忠実であることが大切
単純と純粋の違い
「信仰は単純でいい」とよく言われます。
確かに、複雑に考えすぎる必要はありません。でも:
単純な信仰: 深く考えない、思考停止 純粋な信仰: 深く学んでも、子どものような信頼を失わない
イエス様は「幼子のようになりなさい」と言われましたが、「無知でいなさい」とは言われませんでした。
パウロは誰よりも深い神学者でしたが、同時に誰よりも純粋に神を信頼していました。
私たちはどうすればいい?
「じゃあ、固い食物を食べないとダメなの?」
いいえ、無理する必要はありません。
でも、パウロもヘブル書の著者も、「いつまでも乳ばかりではなく、成長してほしい」と願っています。
これは見下しではなく、励ましです。
「乳」で救われます。 それは間違いありません。 でも「固い食物」を食べられるようになると、 もっと神様の深さが分かって、信仰が豊かになります。
まとめ
- 「固い食物」=悔い改めの厳しい教え → ✗ 誤解です
- 「固い食物」=神学的に深い教え → ✓ 正解です
- 悔い改めは「乳」の段階の基本的教え
- 「純粋なみことばの乳」は別の話(教えの質について)
- 単純と純粋は違います
もしあなたも「固い食物=厳しい教え」と教えられてきたなら、一度ヘブル書5-6章を開いてみてください。
聖書そのものが、何を言っているか。
それが、一番大切なことです。

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