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聖書通読 ヨエル書1章2章・Ⅱペテロ3章|心を裂いて、帰れ—神の「遅さ」は、愛の長さ—|第332回

ペテロの第二の手紙
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聖書通読 第332回

通読箇所:ヨエル書1章1節〜2章32節、ペテロの第二の手紙3章1節〜18節

祈っても、なかなか答えが来ない。神の約束は、本当に実現するのだろうか。そう思ったことはありませんか?

神が「遅い」と感じる時、その遅さの中には、いったい何があるのでしょうか。

今回は、いなごに国中を食べ尽くされた時代の預言者ヨエルと、「約束はどうなったのか」とあざけられたペテロの手紙から、神の「遅さ」の本当の意味を一緒に見ていきます。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(預言書)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(新約)、第三部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:預言書(ヨエル書1章・2章)

いつの話か、分からない預言書

ヨエル書には、不思議なところがあります。王の名前が一つも出てこないのです。

ほかの預言書は、たいてい最初に、どの王の時代の話かが書かれています。だから、いつの話かが分かります。でもヨエル書には、それがありません。

そのため、書かれた時代についてはいくつかの説があります。紀元前800年代という古い説から、バビロン捕囚(*)から帰ったあとの紀元前400年ごろという説まであります。今は、捕囚のあとに書かれたという考えが有力です。でも、はっきりとは決まっていません。

でも、心配はいりません。ヨエル書では、「いなご」そのものが歴史だからです。

国中を食べ尽くしたもの

ある年、イスラエルの地をいなごの大群が襲いました。

かみ食らういなごの残したものは、
群がるいなごがこれを食い、
群がるいなごの残したものは、
とびいなごがこれを食い、
とびいなごの残したものは、
滅ぼすいなごがこれを食った。

(ヨエル書1章4節)

四つの名前のいなごが、次々にやって来ます。一つが食べ残したものを、次が食べる。最後には、何も残りません。

ぶどうの木も、いちじくの木も、皮まではがされて白くなりました。小麦も大麦もなくなりました。

ここで注目したいのは、被害が神殿にまで及んだことです。神にささげる穀物とぶどう酒(素祭と灌祭*)が作れなくなりました。聖書はそれを「われわれの神の家から/喜びと楽しみが絶えたではないか」と書いています。

食べ物がないだけではありません。神を礼拝する喜びまで消えてしまったのです。

「主の日」とは何か

ヨエルは、このいなごを見て叫びました。「主の日は近く」と。

主の日(*)とは、神がこの世界にはっきりと介入して、裁きと救いを行う日のことです。

ヨエルにとって、いなごの災害はただの自然災害ではありませんでした。もっと大きな日の「予告編」だったのです。

2章に入ると、いなごの姿は軍隊のように描かれます。馬のように走り、城壁をよじ登り、窓から家に入ってきます。そして、太陽も月も暗くなります。目の前のいなごの話が、いつのまにか終わりの日の話へと広がっていくのです。

ヨエル書の流れ図(いなごの災害→主の日の予告→悔い改めの呼びかけ→回復→霊の注ぎ)

ヨエル書1〜2章の流れ

いなごの災害から、霊が注がれる約束まで

1

1章1〜20節

いなごの災害

四つの名前のいなごが国中を食べ尽くす。作物も、神殿のささげ物も、喜びも消える。

2

1章15節〜2章11節

主の日の予告

いなごは、もっと大きな「主の日」の予告編。いなごの姿は軍隊のように描かれ、日も月も暗くなる。

「主の日は近く」(1章15節)

3

2章12〜17節

悔い改めの呼びかけ

服ではなく心を裂いて、帰れ。神は「怒ることがおそく」(エレク・アパイム=鼻が長い)方だから。

「あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」(2章13節)

ここで流れが変わる:主は「その民をあわれまれた」(2章18節)

4

2章18〜27節

回復

穀物も、新しい酒も、油も戻ってくる。いなごに食べられた「年」まで取り返される。

「わたしはあなたがたに償う」(2章25節)

5

2章28〜32節(ヘブライ語聖書では3章)

霊の注ぎ

男も女も、若者も老人も。神の霊は、すべての人に注がれる。のちにペンテコステの日、ペテロがこの言葉を語る(使徒行伝2章)。

「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」(2章32節)

暗い色から明るい色へ。裁きの予告は、帰ってくる者への招きで終わります。

衣ではなく、心を裂け

そんな恐ろしい日の前で、神は意外なことを語ります。

「今からでも、あなたがたは心をつくし、
断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。
あなたがたの神、主に帰れ。
主は恵みあり、あわれみあり、
怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、
災を思いかえされるからである。

(ヨエル書2章12〜13節)

昔のイスラエルでは、深く悲しむとき、自分の服を引き裂く習慣がありました。でも神は、服ではなく心を裂けと言います。外から見える形ではなく、心の中から向きを変えなさい、ということです。

そして、帰ってよい理由が書かれています。神がどんな方なのか、です。この言葉は、出エジプト記34章6節で、神がモーセに自分のことを教えた言葉とよく似ています。イスラエルの人々が何度も思い出してきた、神の「自己紹介」なのです。

鼻の長い神

その中の「怒ることがおそく」という言葉を見てみましょう。

ヘブライ語では「エレク・アパイム」と言います。

「エレク」は「長い」という意味です。

「アパイム」は、もとは「鼻の穴」を表す言葉です。鼻の穴は二つあるので、二つ一組を表す形(双数形*)になっています。ヘブライ語では、鼻は「怒り」も表します。怒ると鼻息が荒くなるからです。

つまり、言葉を一つずつ直訳すると「鼻が長い」です。意味としては「怒るのがおそい」「なかなか怒らない」ということです。

ここからは黙想です。怒りが鼻から出てくるまで、とても長い道のりがあるように思えます。神の怒りは、すぐには届きません。その長い道のりの間に、人が帰ってくるのを待っておられるのではないでしょうか。この「長さ」は、あとでペテロの手紙の中で、思いがけない形でもう一度出てきます。

いなごの食べた年を、神は償う

人々が祈りに集まったあと、神は答えます。

“わたしがあなたがたに送った大軍、
すなわち群がるいなご、とびいなご、
滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を
わたしはあなたがたに償う。”

(ヨエル書2章25節)

食べられたのは作物だけではありません。「年」そのもの、つまり人生の時間です。神はその失われた年まで取り返すと約束しています。

失った時間を悔やんでいる人にとって、これほどうれしい言葉はないかもしれません。

すべての人に、霊を注ぐ

そして2章の終わりで、約束はさらに大きく広がります。

その後わたしはわが霊を
すべての肉なる者に注ぐ。
あなたがたのむすこ、娘は預言をし、
あなたがたの老人たちは夢を見、
あなたがたの若者たちは幻を見る。

(ヨエル書2章28節)

男も女も、若者も老人も、しもべも、はしためも。神の霊は、限られた人だけのものではなくなります。

興味深い点として、ヘブライ語の聖書では、この28節からが独立した3章になっています。聖書の章の区切り方は、伝統によって違うのです。

この約束は、何百年もたってから、エルサレムのある朝に実現します。そのことは、第三部で少し触れます。

*この部に出てきた言葉

*バビロン捕囚:紀元前586年ごろ、ユダの人々がバビロン(今のイラク)に連れて行かれた出来事。

*素祭と灌祭:神にささげる穀物のささげ物(素祭)と、ぶどう酒を注ぐささげ物(灌祭)。

*主の日:神がこの世界にはっきりと介入して、裁きと救いを行う日。

*双数形:ヘブライ語で「二つ一組」のものを表す形。目、耳、手、鼻の穴など。

第二部:新約(ペテロの第二の手紙3章)

「約束はどうなったのか」

この手紙は、伝統的に、ペテロが人生の終わり近くに書いたとされています。イエスが天に帰られてから、もう30年以上たっていました。

主はすぐに戻って来られる。最初の弟子たちは、そう信じて待っていました。でも、なかなかその日は来ません。

すると、あざける人たちが現れました。彼らはこう言います。「主の来臨の約束はどうなったのか」(来臨*)。昔から何も変わっていないじゃないか、と。

これは2000年前の人だけの疑問ではありません。今の私たちも、心のどこかで同じことを思うことがあるのではないでしょうか。祈っても答えがない。約束がいつまでも実現しない。神は本当に動いてくださるのだろうか、と。

千年は一日のよう

ペテロは、まずこう答えます。

主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

(ペテロの第二の手紙3章8節)

私たちは、時計とカレンダーの中で生きています。でも神は、時間の外におられる方です。私たちにとって長い年月も、神の目には短い一日のようです。

この言葉は、モーセの祈りとされる詩篇90篇の言葉を思い出させます。

ペテロはさらに、ノアの洪水も思い出させます。世界は「変わらない」ように見えて、実は一度、神の言葉によって大きく変わったことがあるのです。

遅いのではない

そして、この章の一番大切な言葉が来ます。

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

(ペテロの第二の手紙3章9節)

ここで、二つのギリシャ語を比べてみましょう。

一つ目は「おそくしておられる」です。ギリシャ語で「ブラデュネイ」と言います。「ぐずぐずする、のろのろする」という意味です。

二つ目は「ながく忍耐しておられる」です。ギリシャ語で「マクロスュメイ」と言います。

「マクロ」は「長い」という意味です。

「スュメイ」のもとになった「スュモス」は、「心の熱、激しい気持ち」という意味です。怒りを表すこともあります。

辞書での意味は「忍耐する、寛容である」です。でも、言葉の組み立てを見ると、「心の熱を長く保つ」というイメージが浮かんできます。すぐに怒りを爆発させず、じっとこらえる姿です。

ペテロは言います。神はブラデュネイ(のろのろしている)のではない。マクロスュメイ(ながく忍耐している)のだ、と。

人から見ると、どちらも「まだ来ない」に見えます。でも中身はまったく違います。一つは怠けている遅さです。もう一つは、愛しているから待つ遅さです。

興味深い点として、「ながく忍耐しておられる」は現在形で書かれています。ペテロは、神の忍耐を昔の話としてではなく、今のこととして語っているのです。そして「あなたがたに対して」とあります。神が待っているのは、外の人たちだけではありません。手紙を読んでいる私たちのためでもあるのです。

15節でも、ペテロはもう一度くり返します。「わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい」。この「寛容」(*)は「忍耐」とも訳せる言葉で、マクロスュメイと同じ仲間の言葉(マクロスュミア)です。

主の日は盗人のように

それでも、その日は必ず来ます。ペテロは「主の日は盗人のように襲って来る」と書きます。

ここで、ヨエルと同じ「主の日」(*)という言葉が出てきました。盗人は、来る日を前もって知らせません。だから、いつ来てもいいように備えておく必要があるのです。これはイエスご自身が弟子たちに語った言葉とも重なります。

その日、今の天と地は火で焼かれると書かれています。恐ろしい言葉です。でもペテロは、恐ろしさで終わりません。

義の住む、新しい天と地

しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

(ペテロの第二の手紙3章13節)

古いものが壊れるのは、終わりのためではありません。新しいものが始まるためです。

「義の住む」という言葉が心に残ります。正しさが、たまに訪ねてくるのではありません。そこに住んでいるのです。不正も、涙も、もう居場所がない世界です。

だからペテロは勧めます。「しみもなくきずもなく、安らかな心で」神の前に出られるように励みなさい、と。待つことは、ただぼんやりしていることではありません。その日にふさわしく、今日を生きることなのです。

*この部に出てきた言葉

*来臨:イエス・キリストが、もう一度この世界に来られること。「再臨」とも言う。

*主の日:神がこの世界にはっきりと介入して、裁きと救いを行う日。

*寛容:心を広く持ち、すぐに罰したりせず、長く耐えること。

第三部:全体の一貫性

ヨエルの言葉を叫んだ、あの日のペテロ

ここで、一つ驚くことがあります。

ペテロの第二の手紙を書いたペテロは、若い日に、ヨエル書を人々の前で語った人なのです。

イエスが天に帰られてから十日ほどたった五旬節(ペンテコステ*)の日のことです。エルサレムに集まっていた弟子たちに、聖霊が下りました。弟子たちは、いろいろな国の言葉で神のわざを語り始めました。

それを見て、ある人たちはあざ笑いました。「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と。

ペテロは立ち上がって言いました。今は朝の九時だ、酔っているのではない。「これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである」。そして、ヨエル書2章28節からの言葉を語ったのです。「わたしの霊をすべての人に注ごう」と。

ヨエルの時代、ぶどう酒はいなごに奪われていました。そしてヨエルは、新しい酒があふれる日と、霊が注がれる日を約束しました。何百年もたって、その日、人々は「新しい酒で酔っている」と言いました。でも本当に注がれていたのは、酒ではなく神の霊でした。

二人が見た、同じ「主の日」

ヨエルは、いなごの向こうに「主の日」(*)を見ました。

ペテロも、「主の日は盗人のように襲って来る」と書きました。

二人の間には、何百年もの時があります。でも見ている日は同じです。神がこの世界に決定的に介入される日。それは恐ろしい日です。でも同時に、救いの日でもあります。

ヨエルはこう書いています。「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」。

ペテロもペンテコステの日に、同じ約束を語りました。「主の名を呼び求める者は、/みな救われるであろう」と。

鼻の長い神から、長い忍耐へ

そして、今回一番伝えたいことです。

第一部で、ヨエル書2章13節の「怒ることがおそく」を見ました。ヘブライ語で「エレク・アパイム」、直訳すると「鼻が長い」でした。

イエスが生まれる前、旧約聖書はギリシャ語に翻訳されました。これを七十人訳(*)と言います。ペテロの時代、多くの人がこのギリシャ語の聖書を読んでいました。

七十人訳は、ヨエル書の「エレク・アパイム」を「マクロスュモス」と訳しました。「マクロ」は「長い」、「スュモス」は「心の熱、激しい気持ち」です。「長い鼻」が「長い心」になったのです。

そして第二部で見たように、ペテロは、主は「ながく忍耐しておられる」と書きました。この「ながく忍耐する」が、マクロスュメイです。マクロスュモスと同じ仲間の言葉です。

言葉のリレー図(ヘブライ語「エレク・アパイム」→七十人訳「マクロスュモス」→ペテロ「マクロスュメイ」)

「長い」がつながる、言葉のリレー

ヨエル書2章13節 → 七十人訳 → ペテロの第二の手紙3章

① ヘブライ語 ヨエル書2章13節

ヨエルが伝えた、神の「自己紹介」の言葉

אֶרֶךְ אַפַּיִםエレク・アパイム

意味:怒ることがおそい(言葉どおりに訳すと「鼻が長い」)

אֶרֶךְエレク長い
אַפַּיִםアパイム鼻の穴(二つ一組の形)→ 怒り
▼ギリシャ語に翻訳される(紀元前3世紀ごろから)
② 七十人訳(ギリシャ語の旧約) ヨエル書2章13節

イエスの時代に多くの人が読んでいた聖書

μακρόθυμοςマクロスュモス

意味:怒るのがおそい、気長な(「長い鼻」が「長い心」に)

μακρόςマクロス長い
θυμόςスュモス心の熱、激しい気持ち
▼同じ仲間の言葉が、ペテロの手紙に
③ ギリシャ語 ペテロの第二の手紙3章

「主の来臨の約束はどうなったのか」とあざける人たちへの答え

μακροθυμεῖマクロスュメイ

3章9節:ながく忍耐しておられる(現在形)

μακροθυμίαマクロスュミア

3章15節:寛容(「忍耐」とも訳せる)

βραδύνειブラデュネイおそくしている(3章9節)← 神はこちらではない
三つをつなぐ芯は「長い」
神の「遅さ」は、ぐずぐずしている遅さ(ブラデュネイ)ではなく、怒りを長く引き延ばして待つ「長さ」(マクロスュメイ)。

※①②③が同じ言葉の流れにあるのは言葉の事実です。ペテロがヨエル書2章13節を思い浮かべて書いたかどうかは、はっきりとは分かりません。

でも、ここからは黙想です。ヨエル書を人々の前で語ったペテロです。「鼻の長い神」の言葉が、心の中に残っていなかったとは思えません。神の「遅さ」を笑う人たちに向かって、ペテロは昔からの神の自己紹介を、もう一度思い出させていたのではないでしょうか。

悔い改めの季節に読まれる言葉

もう一つ、つながりがあります。

ユダヤの暦では、秋に新年(ロシュ・ハシャナ*)があります。その十日後が、一年で一番大切な贖罪日(ヨム・キプール*)です。この二つの間にある安息日を、「シャバット・シュヴァ(立ち返りの安息日*)」と呼びます。

アシュケナジ系(*)の会堂では、この日に預言書として、ホセア書14章とヨエル書2章15〜27節が読まれます。セファルディ系(*)の会堂では、読む箇所が少し違います。

ホセア書の最後の章は、イスラエルに主のもとへ帰るよう呼びかけています。そのあとに読まれるヨエル書2章15節は、「シオンでラッパを吹きならせ。/断食を聖別し、聖会を召集し」と始まります。すぐ前の13節の「心を裂け」から続く、悔い改めの集まりへの呼びかけです。

ユダヤの人々は、長い間、悔い改めの季節にこの言葉を聞いてきました。神の怒りが遅いのは、帰る時間をくださるためだ、と。

ペテロも同じことを言っています。神が待っておられるのは、「すべての者が悔改めに至ることを望み」だからです。ペンテコステの日、心を刺された人々に、ペテロが最初に言った言葉も「悔い改めなさい」でした。

待たされているのではなく、待っていただいている

私たちは、神を待っていると思っています。祈りの答えを。約束の実現を。主が来られる日を。

でも、ヨエル書とペテロの手紙を並べると、逆の景色が見えてきます。待っておられるのは、神のほうなのです。

怒りを長く長く引き延ばし、一人でも多くの人が帰ってくるのを、神は待っておられます。今日という一日も、その長い忍耐の中で与えられています。

もし今、神から遠いと感じているなら、服ではなく、心を裂いて帰ってきてください。いなごに食べられた年さえ、神は償うと約束しておられます。遅すぎることはありません。神の鼻は、まだ長いのですから。

この箇所に寄せて ——賛美「散らされて蒔かれて」

最後に、一曲紹介させてください。「散らされて蒔かれて」という賛美です。

この歌は、ホセア書を読みながら生まれました。でも今回のヨエル書とペテロの手紙を読むと、不思議なほど重なります。ユダヤの会堂で、ホセア書14章とヨエル書2章が同じ日に続けて読まれてきたことを思うと、それも当然なのかもしれません。

歌は、『さとらせようと にんたいをもって/待っておられた』と始まります。これは、ペテロが書いた「ながく忍耐しておられる」神の姿そのものです。そして歌は、『待っておられただけでなく』と続きます。神はただ待つだけではありません。形を変えて語りかけ、何としても救おうとされる。いなごの災害さえ、人を呼び戻すための声に変えた、ヨエル書の神と重なります。

ここで注目したいのは、「種」です。いなごの年、ヨエル書は「種は土の下に朽ち」と書いています。人の蒔いた種は、実りませんでした。でもこの歌では、神が『愛の種を まいてくださった』と歌います。人の蒔いた種が朽ちた荒れ地に、神は朽ちない種を蒔いてくださるのです。そして雨が降り、「荒野の牧草はもえいで」ます。歌の『やがて 芽吹く者よ』は、ヨエル書2章の回復の景色です。

歌の後半には、『私は なんということを したのでしょう』という一行があります。服ではなく、心を裂く言葉です。神の愛の長さに気づいた時、人の心は内側から砕かれます。そしてその砕かれた心から、『心からの愛で/応えさせてください』という祈りが生まれるのです。

神の「遅さ」の中で待っていてくださった愛を思いながら、聴いていただけたらうれしいです。

*この部に出てきた言葉

*五旬節(ペンテコステ):過越の祭りから50日目の祭り。この日に聖霊が弟子たちに下った。

*主の日:神がこの世界にはっきりと介入して、裁きと救いを行う日。

*七十人訳:紀元前3世紀ごろから作られた、旧約聖書のギリシャ語訳。

*ロシュ・ハシャナ:ユダヤの新年。秋にある。

*ヨム・キプール:贖罪日。一年の罪の赦しを願う、最も厳かな日。

*シャバット・シュヴァ:新年と贖罪日の間の安息日。「立ち返りの安息日」という意味。

*アシュケナジ系:ドイツや東ヨーロッパに住んできたユダヤ人の流れ。

*セファルディ系:スペインや地中海沿岸、中東に住んできたユダヤ人の流れ。

語彙集

第一部の語彙

ヘブライ語

原語発音意味
אֶרֶךְ אַפַּיִםエレク・アパイム怒ることがおそい(直訳:鼻が長い)/ヨエル書2章13節
└ אֶרֶךְエレク長い(「エレク・アパイム」の一つ目の語)
└ אַפַּיִםアパイム鼻の穴(二つ一組を表す双数形)、慣用句で怒り
אַףアフ鼻、怒り(「アパイム」のもとになる辞書形)

第二部の語彙

ギリシャ語

原語発音意味
βραδύνειブラデュネイおそくしている、ぐずぐずしている/Ⅱペテロ3章9節
μακροθυμεῖマクロスュメイながく忍耐している、寛容である(現在形)/Ⅱペテロ3章9節
└ μακρόςマクロス長い(「マクロスュメイ」の前半のもとになる語)
└ θυμόςスュモス心の熱、激しい気持ち、怒り(後半のもとになる語)
μακροθυμίαマクロスュミア寛容、忍耐/Ⅱペテロ3章15節

第三部の語彙

ヘブライ語

原語発音意味
אֶרֶךְ אַפַּיִםエレク・アパイム怒ることがおそい(直訳:鼻が長い)/ヨエル書2章13節
└ אֶרֶךְエレク長い
└ אַפַּיִםアパイム鼻の穴(双数形)、慣用句で怒り

ギリシャ語

原語発音意味
μακρόθυμοςマクロスュモス怒るのがおそい、気長な(形容詞)/七十人訳ヨエル書2章13節
└ μακρόςマクロス長い
└ θυμόςスュモス心の熱、激しい気持ち、怒り
μακροθυμεῖマクロスュメイながく忍耐している/Ⅱペテロ3章9節

参考:聖書ソフトなど

聖書引用について

本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。

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同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません。
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