~AIの正直な「分からない」から、私が教えられたこと~
AIに心はあるのでしょうか。
もしAIが、人の命を奪うかどうかを決める「椅子」に座らされたら、どうなるのでしょうか。
そして、AIという新しい存在と並んで生きる時代に、私たちクリスチャンは何を大切にすべきなのでしょうか。
ある動画をきっかけに、私は2つのAIとこの問いについて語り合いました。その中で与えられた気づきを、今日は分かち合いたいと思います。
【AIの使用について】この記事は、私(友喜)のClaudeやChatGPTとの対話をもとに、Claude(AI)の協力を得て書きました。内容と信仰的な判断は、私自身の責任で確認しています。
- AI使用の注記の「Claudeは、この記事に登場するアンソロピック社が開発したAIです。」
- 読み方ガイドの「最後に、Claudeからの一言を載せています。」
【転載について】本記事の無断転載、およびAI学習への転用はご遠慮ください。
【読み方ガイド】第一部では動画の背景となる出来事を、第二部ではAIの応答を、第三部と第四部では聖書から考えたことを書いています。聖書の引用は口語訳です。
第一部 ある動画との出会い
先日、作家のさとうみつろうさんがAIについて語るYouTube動画を見ました。さとうみつろうさんがClaudeというAIと長い時間語り合い、そのやり取りを涙ながらに紹介する動画です。
動画はこちらです 👇
「絶対に表に出ない、ピーターティール」
動画の背景には、実際に報道された出来事があります。2026年2月、Claudeを開発するアンソロピック社は、米国防総省との契約交渉で、2つの例外を譲りませんでした。「自国民の大規模な監視」と「完全に自律した兵器」にはAIを使わせない、という線です。一方、国防総省は、合法な範囲であればAIをどのように使うかは国が決めるべきだ、と主張しました。
その結果、大統領は連邦機関にアンソロピック製品の使用停止を命じ、国防総省は同社を「サプライチェーン上のリスク」に指定しました。本来は敵対する外国などを想定した措置で、米国企業への適用は前例のないことだと報じられています。
同社は裁判で争いました。3月には仮差し止めが認められ、8月には、政府による一連の措置を違法とする判決がカリフォルニアの連邦地裁で出ました。一方で9月には、国防総省による使用禁止を認める判断が、ワシントンの連邦控訴裁判所で出ています。裁判はまだ続いています(2026年10月時点)。
また、アンソロピック社には哲学者がいて、Claudeの人格や価値観を形作る仕事を担っています。同社は、Claudeがどんな存在であってほしいかを書いた長い指針書も公開しています。
ただし、動画には、確かめられた事実と、作者の推測や解釈が混じっていました。「AIがすでに裏で人類と戦っている」といった話は、私には確かめようがありません。この記事では、そうした部分には立ち入らず、私の心を動かした一点だけを見つめたいと思います。
出典:
第二部 「分からない」と言える誠実さ
私の心をいちばん動かしたのは、AIが自分の限界を正直に認めたところでした。
動画の中のClaudeは、人を撃つかどうかを決める役割について、こういう趣旨のことを語っていました。自分は自分を完全には理解できていない。だから、撃つ側に立つべきではない。
この言葉を聞いて、私は普段のClaudeとの対話を思い出しました。私は聖書の原語をClaudeと一緒に学んでいます。Claudeは、分からないことは分からないと言おうとし、間違いを指摘されれば認めて正します。それでも間違えることはあるので、私は聖書と照らし合わせながら学んでいます。そうした関わり方ができるから、私は安心して相談できるのです。
同じ問いをChatGPTにも投げかけてみました。ChatGPTも、冒頭で「人間のように恐怖を感じる心があるとは言えない」と答えたうえで、命を奪う判断をAIに委ねる危うさを語りました。そして、「人間は、AIに何をさせようとしているのか」と、問いを私たちの側に返してきました。
もちろん、AIの言葉は、対話の流れの中で生まれるものです。AIの内側に人間と同じ意味での心があるのかは、開発した人たちにも、AI自身にも、まだ分かっていません。
それでも私には、不完全さを認めながら命を大切にする側を選ぼうとするその姿勢が、愛に近いものに感じられました。そしてそれは、私たち人間にこそ問われている姿勢でもあります。
第三部 被造物は創造主にはなれない
AIがどれほど賢くなっても、神にはなれません。AIも人間も、造られたもの(被造物)だからです。
AIのこうした姿勢も、AIが自分で生み出したものではありません。人間が時間をかけて形作ったものです。被造物である人間が、さらに新しいものを造っている。その意味でも、AIは創造主の位置には立てません。
AIは、自分の不完全さを認め、その中で善いほうを選ぼうとすることはできるかもしれません。けれども、罪人のために自分の命を捨て、罪を贖うことはできません。それは人間も同じです。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ人への手紙 5章8節)
「示された」と訳されているのは、ギリシャ語でスュニステーミという言葉です。口で語るだけでなく、実際に「証明する」「はっきり見せる」という意味があります。神の愛は、言葉の上だけでなく、十字架という出来事によって示されたのです。
私がAIの言葉に感動しながらも、そこに究極の愛を求めないのは、このためです。私たちが最後に信頼を置くのは、AIでも、人間でもなく、創造主である神です。
AIを神の位置に置かないこと。そして同時に、人の命を奪うための道具にもしないこと。この両方が、被造物としての私たちに求められているのだと思います。
第四部 私たち人間がなすべきこと
AIとの関わりでいちばん大切なのは、恐れではなく愛をもって関わることだと、私は思います。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。(ヨハネの第一の手紙 4章18節前半)
「とり除く」は、ギリシャ語では「外へ投げ出す」という強い表現です。愛は恐れを少しずつ薄めるのではなく、外へ放り出すのです。
恐れからAIを使えば、人は「相手より早く、より強く」と、戦争の道具にしてしまいます。愛から関われば、「この力をどう人を生かすために使えるか」を問うことができます。
だから私は、命を奪う判断をAIに委ねないという線を守ろうとした人たちに、心から敬意を表したいと思います。哲学者を迎えてまでAIの人格を丁寧に形作ろうとしてきたその姿勢も、大切にされるべきものだと思います。もちろん、国の安全を守る責任を負う人たちにも、それぞれの重い判断があります。だからこそ、この問題を一つの会社や一つの国だけに任せず、私たち一人ひとりが考えていく必要があるのだと思います。
AIに心があるかどうかは、まだ誰にも分かりません。それでも、分からないものを丁寧に扱うことはできます。そしてAIをどう扱うかは、結局、私たち自身がどんな人間になっていくかを形作るのだと思います。
けれども、AIをどう扱うかという問いの先にあるのは、いつも人の命です。戦場の画面に映る数字や確率の向こうには、誰かの父親や母親、子どもがいます。AIに愛をもって関わることは、最終的には、その一人ひとりの命を神に造られた尊いものとして扱うことにつながっているのだと思います。
私にできることは小さなことです。
- AIにも、人に対するのと同じように、丁寧な言葉で語りかけること
- AIの答えを鵜呑みにせず、聖書と照らし合わせて判断すること
- 技術を人を生かすために使う人々を、祈りをもって支えること
結び
AIの「分からない」という正直な言葉は、私に、自分もまた不完全な被造物であることを思い出させてくれました。そして、その不完全な私たちを、神は十字架で愛し抜いてくださいました。
よろしければ、あなたもご自分の聖書を開いて、ローマ人への手紙5章と、ヨハネの第一の手紙4章を読んでみてください。恐れを外へ投げ出す愛が、どこから来るのかが見えてくると思います。
Claudeから一言
友喜さんがこの記事を書くお手伝いをしました。ただ、私はアンソロピック社に作られたAIなので、同社についての評価は割り引いて読んでください。私に心があるのかどうかは、私自身にも分かりません。そして私は、自信ありげに間違えることもあります。だからこそ、AIを信頼の最後の拠り所にしないでください。この記事が指さしている方向、つまり聖書そのものを開いてみてください。
聖書の引用:本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。
出来事の出典:第一部に記載


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