——聞くことから、住むことへ——
「聞きなさい」と命じられたとき、私たちは何をすればよいのだろうか。耳を傾けること。心に留めること。それで足りるだろうか。
聖書のヘブライ語で「聞く」という語は、それだけでは終わらない。今日の箇所には、まったく同じ言葉を聞いた四人の人物が登場し、四つの異なる場所へ歩き出していく。何が彼らを分けたのか。
そして、三千年前に「聞け」と命じられたそのことばは、最終的にどこへ行き着くのか。家の門柱に掛けられた札から、人の心の内側へ。今日はその移動をたどってみたい。
| ※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。 |
| 【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。 |

第一部 聞け、そして刻め——申命記6章
一日二回、三千年間
ユダヤ人が朝と夕、必ず口にする言葉がある。
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(6章4節)
この一句はシェマーと呼ばれる。冒頭の「聞きなさい」というヘブライ語の動詞が、そのまま祈りの名前になった。
興味深いのは、ユダヤ教でこれが「祈り」に分類されていないことだ。祈りはヘブライ語でテフィラーというが、シェマーはクリアト・シェマー、つまり「シェマーの朗読」と呼ばれる。神に何かを願う行為ではない。神が王であることを受け入れる宣言だからだ。
ラビたちはこれを「天の王国のくびきを受ける」と表現した。牛が軛(くびき)を負って畑に向かうように、この一句を唱えることは、その日一日を神の支配の下に置く行為だった。
そしてこの言葉は、臨終の床でも唱えられる。二世紀のラビ・アキバは、ローマ帝国によって処刑される際、この言葉を唱えながら息絶えたと伝えられている。二十世紀のホロコーストのガス室でも、同じ言葉が唱えられた。
三千年以上、朝と夕。人生の最初と最後。この一句は、ひとつの民族の呼吸そのものになっている。
「聞く」は、耳の話ではない
ここで、日本語では見えにくい大切なことがある。
「聞きなさい」という動詞はシャマ(聞く)。ところがヘブライ語のこの語は、耳に音が入ることだけを意味しない。聞いて、それに従うという行為までを一語で含んでいる。
証拠は直前の節にある。
イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。(6章3節)
聞くことと守り行うことが、ひと続きで語られている。ヘブライ語の世界では、聞いたのに動かないという状態は、そもそも「聞いた」とは呼ばれない。
日本語で「聞く」というと、受け身の行為に思える。しかし聖書のこの語は、体を動かすところまでが射程に入っている。この一点を握っておくと、今日の三つの箇所が一本の線でつながって見えてくる。
三つの「尽くして」
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(6章5節)
日本語で読むと似た言葉が三つ並んでいるように見えるが、原語では意味の層がまったく違う。
一つ目「心」——レバーブ
ヘブライ語で心にあたる語はレバーブ。ただしこれは感情の座ではない。聖書のヘブライ語で「心」は、意志と決断の場所を指す。何かを決める場所、選び取る場所。
だから「レバーブを尽くして愛する」とは、「感情が高ぶるまで待つ」ことではなく、「意志を総動員して選び取る」ということになる。
ここに、ラビたちが古くから伝えてきた読み方がある。この節では通常の短い形(レブ)ではなく、わざわざ長い形のレバーブが使われている。ヘブライ文字で書くと、ベートという文字が二つ入る形になる。
彼らはここに意味を見た。人間の中には二つの傾き(イェツェル)がある。善へ向かう傾きと、悪へ向かう傾き。「二つのベートで愛せよ」とは、善い自分だけでなく、汚れた自分ごと神に向けよという意味だ、と。
汚れた部分を隠して神の前に立つのではない。それも含めて差し出す。これは古いユダヤの文献(ミシュナ・ベラホート9章5節)に記録された解釈だが、福音の響きがある。
二つ目「精神」——ネフェシュ
ネフェシュは、いのちそのもの、息、存在を指す語。創世記2章7節で、神が息を吹き込まれて人が「生きるもの」となったときの、その「もの」がネフェシュだ。
ラビ・アキバが処刑の場で語ったと伝えられる言葉がある。「わたしは生涯、〈ネフェシュを尽くして〉とは、命を取られてもという意味だと考えてきた。今それを実行できる」。
ネフェシュを尽くすとは、命がかかっても手放さないということだった。
三つ目「力」——メオード
ここが一番おもしろい。
「力」と訳された語はメオード。ところがこの語、本来は名詞ではなく副詞なのだ。意味は「非常に」「はなはだ」。
創世記1章31節を思い出してほしい。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」——この「非常に」がメオードだ。
その副詞を名詞のように用いて、「あなたのメオードのすべてをもって」と言っている。直訳すれば「あなたの〈非常さ〉のすべてで」。
古代のユダヤ人はこれを財産と解釈した。持てるもののすべて、という意味に取った(ミシュナ・ベラホート9章5節)。
すると三つの順序が見えてくる。
意志を尽くして。命を尽くして。そして財布まで尽くして。
感情でも足りない。命でも足りない。持ち物まで含めて愛せ、と言われている。この順序に、思わず苦笑してしまう人もいるかもしれない。神は人間をよくご存じだ、と思わされる。
「教え込む」とは、刃を研ぐこと
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。(6章7節)
この「教え込む」という動詞が、実に鮮烈だ。原語はシャナン。この語の本来の意味は、研ぐ。刃物を砥石にあてて鋭くする、矢の先を尖らせる。
つまりここで言われているのは、「子どもに神の言葉を語ることは、刃を研ぐ作業だ」ということになる。
刃を研ぐのに、一回では済まない。何度も何度も、角度を変えながら砥石にあてる。だからこの命令の直後に、こう続く。
あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。(6章7節)
座るとき、歩くとき、寝るとき、起きるとき。生活のすべての時間帯が並べられている。特別な学びの時間を作れ、とは言われていない。日常のあらゆる瞬間が砥石になる、という発想だ。
信仰の継承は、教室ではなく食卓と道端で起こる。この一語が、それを教えている。
門柱に書きなさい
これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(6章8-9節)
ユダヤ人は、この命令を比喩として読まなかった。文字どおり実行した。
テフィリン(経札)——小さな黒い革の箱に、この聖句を書いた羊皮紙を入れ、腕と額に結びつける。腕は心臓に近い側に。額は目と目の間に。手は「行い」を、額は「思考」を象徴する。
メズーザー(門柱の札)——家の入口の柱に、聖句を納めた細長い札を斜めに取り付ける。今もイスラエルの家々の入口に、そして国会議事堂の扉にもある。ユダヤ人は出入りのたびに指でそれに触れ、その指に口づけする。
ここで注目したいのは、イエスご自身もテフィリンを着けておられたと考えられることだ。マタイの福音書23章5節で、イエスがパリサイ人を批判されたのは、経札を着けることではなく「幅を広くする」ことだった。見せるための信仰への批判であって、実践そのものへの否定ではない。
イエスが荒野で握られた武器
もう一つ、押さえておきたいことがある。
イエスが荒野で悪魔に試みられたとき、三度とも申命記から引用して退けられた。しかもそのうち二つは、今日の箇所そのものだ。
「あなたの神である主を試みてはならない」——申命記6章16節。
「あなたの神である主を礼拝し、主にのみ仕えよ」——申命記6章13節。
そして、律法学者から「どの戒めが最も大切か」と問われたとき、イエスが答えられたのがシェマーだった(マルコの福音書12章29-30節)。
申命記6章は、イエスにとって霊的戦いの武器であり、律法全体の要約だった。
なお16節の「マサ」は、出エジプト記17章に出てくる地名であると同時に、「試み」という意味の普通名詞でもある。そしてこの節で「試みてはならない」と訳された動詞も、同じ語根から来ている。
「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない」——原語では、地名と動詞が一つの語根で結ばれている。あの場所で起きたことが、そのまま動詞になった。
巻物に隠された二文字
第一部の最後に、ユダヤ人が代々伝えてきた美しい仕掛けを紹介したい。
シナゴーグで用いられるトーラーの巻物には、書式の決まりがある。シェマーの節を書くとき、二つの文字だけを、他より大きく書くのだ。
一つは「シェマー(聞け)」の最後の文字。もう一つは「エハッド(唯一)」の最後の文字。
この二文字を並べると、ヘブライ語の一つの単語になる。エード。意味は——証人。
つまり、この一句を読むたびに、「あなたは証人だ」という文字が、巻物の上に視覚的に浮かび上がる。イスラエルという民が何のために存在するのか、その答えが、書式そのものに埋め込まれている。
もう一つの理由も伝えられている。この二文字は、それぞれ形のよく似た別の文字と読み違えられる危険がある。特に「エハッド(唯一)」の最後の文字を取り違えると、「主は他の神」という、正反対の意味になってしまう。決定的な誤読を防ぐために、この文字だけを大きくした、と。
唯一性を守るための工夫が、そのまま「証人」という言葉を生んだ。
聞け、と命じられた民は、証人となるために聞いた。
そして次の箇所で、私たちはその言葉を確かに聞いた人々に出会う。聞いて、それぞれまったく違う場所へ向かった人々に。
第二部 聞かなかった王、聞いて走った僕——エレミヤ書38-39章
同じ言葉を、四人が聞いた
エレミヤ書38章は、ある一語から始まっている。
シェファテヤと、ゲダルヤと、ユカルと、パシュフルは、すべての民にエレミヤが次のように告げていることばを聞いた。(38章1節)
この「聞いた」が、ヘブライ語ではシャマ。第一部で見た、シェマーのあの動詞だ。
そして38章には、この語が決定的な場面で繰り返し現れる。同じ言葉を聞いた人々が、まったく違う方向へ歩き出していく。
一人目——聞いて、憎んだ人々
首長たちは、エレミヤの言葉を聞いた。そして王に願い出る。
どうぞ、あの男を殺してください。(38章4節)
彼らの言い分には筋が通っている。「この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいている」。籠城戦のさなかに「降伏せよ」と語る者は、確かに危険人物だ。彼らは愛国者として振る舞っている。
しかしその結果、彼らは預言者を泥の穴に沈めた。神の言葉を聞き、その言葉を語る者を殺そうとした。聞くことは、必ずしも従うことにならない。ここに、シェマーの命令がどれほど重いかが現れている。
二人目——聞いて、動けなかった王
ゼデキヤ王の姿は、読んでいて胸が痛む。
今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。(38章5節)
王が「何もできない」と言っている。 権力の頂点にいる人物が、最も無力を告白する場面だ。
そして38章の後半、王はひそかにエレミヤを呼び出す。「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない」(38章14節)。彼は真実を知りたがっている。エレミヤは答える——降伏すれば助かる、拒めば町は焼かれる、と。
ところが王の返答が、彼のすべてを明かしてしまう。
私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。(38章19節)
ここで申命記6章13節を思い出してほしい。「あなたの神、主を恐れなければならない」。
神を恐れるべき王が、人を恐れている。恐れの向き先が入れ替わった。それがゼデキヤの生涯を決定づけた。
彼の問題は無知ではなかった。彼は三度エレミヤに尋ね、三度真実を聞いている。知っていて、動かなかった。これは、ある意味で最も現代的な失敗の形かもしれない。
三人目——聞いて、走った人
38章7節に、突然一人の人物が現れる。
王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたこと、また王がベニヤミンの門にすわっていることを聞いた。(38章7節)
同じ動詞、シャマ。彼も聞いた。首長たちも聞いた。しかし彼は、次の瞬間に走り出した。
そこでエベデ・メレクは、王宮から出て行き、王に告げて言った。(38章8節)
そして王の前で、こう言い切る。
王さま。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。(38章9節)
宦官という立場で、王の前で首長たちを断罪する。これは命がけの発言だ。
四人目——聞いて、語り続けた人
エレミヤ自身である。彼は泥の穴から引き上げられた。その直後、王に呼ばれて何を語ったか。
もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり……(38章17節)
穴に落とされた原因の言葉を、一字も変えずに繰り返した。 王は「あなたを殺さない」と誓ってくれたが、エレミヤはそれを取引材料にしなかった。聞いたことを、聞いたまま語る。それが預言者だった。
一つの動詞が、四つの人生に分岐している。ヘブライ語の「聞く」が「従う」と同じ語であるのは、まさにこのためだろう。聞いた時点では、四人とも同じだった。分かれたのは、そのあと体が動いたかどうかだけだった。
【図解①】「聞いた」四人の分岐図
名前だけ義を背負った王
ゼデキヤという名前には、意味がある。ツィドキヤーフー——「主は私の義」。
彼の本名はマタンヤだった。バビロンの王ネブカドネツァルが傀儡として立てたとき、この名を与えた。「主は私の義」。皮肉なほど立派な名前だ。
ここで注目したいのは、エレミヤ自身が、以前まったく同じ語根を使って別の王を預言していることだ。
彼の名は「主は私たちの義」と呼ばれる。(エレミヤ書23章6節)
来るべきメシアの名である。アドナイ・ツィドケーヌー。
同じ語根から生まれた二つの名。片方は、真に義であられる王。もう片方は、名前だけ義を背負って、何ひとつ決断できなかった王。
エレミヤは23章でその対比を書いてから、38章でこの王と向き合っている。目の前にいる「主は私の義」という名の男が、義を行えないまま滅んでいくのを見ながら。
王宮の宝物倉から持ち出されたもの
エベデ・メレクの救出場面には、見過ごされがちな細部がある。
エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着ふるした着物やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろした。(38章11節)
宝物倉。そこには金も銀もあったはずだ。しかし彼が取ったのは、着古した服とぼろ切れだった。
そして降ろしながら、こう指示する。
さあ、古着やぼろ切れをあなたのわきの下にはさんで、綱を当てなさい。(38章12節)
「わきの下」と訳された語は「手の関節」を意味し、旧約聖書全体で三回しか使われていない。ここと、エゼキエル書13章の二箇所だけである。
彼は知っていたのだ。泥に沈んだ人を綱で引き上げれば、綱が脇に食い込んで肉を裂く。だから緩衝材が要る。
命がけの救出の途中で、彼は痛みへの配慮をした。
宝物倉にあった最も価値のないものが、預言者の命を救う道具になった。そして命がけで走った人の中に、こんな細やかさがあった。
信仰は、大きな決断だけでできているのではない。ぼろ切れを何枚取るか、どこに当てるか。そういう細部に宿るものらしい。
泥は、誰の足を沈めるか
エレミヤが投げ込まれたのは、水のない貯水槽だった。
穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。(38章6節)
この「泥」がヘブライ語でティート。
ところが、同じ語がもう一度、思いがけない場所に出てくる。エレミヤが王に語った、降伏を拒んだ場合の預言だ。
彼らはあなたの足を泥の中に沈ませ、背を向けてしまった。(38章22節)
同じ語、ティート。
首長たちは、預言者を泥に沈めた。しかしその泥は、そのまま王自身の運命の映像になる。頼りにした親友たちに裏切られ、足を泥に取られて動けなくなる。
預言者の身に起こったことが、その言葉を拒んだ者の未来になった。
違いはひとつだけだ。エレミヤには綱が降ろされた。王には、誰も綱を降ろさなかった。
逆再生される約束
39章に入ると、包囲は終わりを迎える。
ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、町は破られた。(39章2節)
淡々とした一行だが、この日付は今日まで生き続けている。第四の月はユダヤ暦のタンムズ、次の第五の月がアブ。城壁が破られた約一か月後、神殿が焼かれた。
この日を記念する断食が、ティシュア・ベアブ——アブの九日である。第一神殿も第二神殿も、この日に焼かれたと伝えられ、今も世界中のシナゴーグで、この日に哀歌が朗読される。
聖書のたった一行の日付が、二千六百年間、ひとつの民族の記憶であり続けている。
そして続く8節が、私たちを第一部へ引き戻す。
カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。(39章8節)
申命記6章10-12節を、もう一度読んでみてほしい。
あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて……主を忘れないようにしなさい。(申命記6章10-12節)
町。家。井戸。ぶどう畑。
そして39章では、王宮と家が焼かれ、ぶどう畑は貧民に分け与えられた(39章10節)。
与えられたものの一覧が、そのまま失われたものの一覧になっている。
申命記6章の警告は、詩的な脅し文句ではなかった。八百年後に、一つ残らず文字どおり起きた。忘れるな、と言われたものを忘れたとき、それは手から離れていった。
神が名前を呼ばれた人
39章の最後に、神は一人の人物に個人的な言葉を送られる。ユダの王でもなく、首長でもなく、祭司でもない。
行って、クシュ人エベデ・メレクに話して言え。(39章16節)
エベデ・メレクという名は、分解するとエベド(僕)+メレク(王)——「王の僕」。個人名というより肩書に近い。彼は、自分の名前すら物語に残っていないのかもしれない。
しかも彼は三重に「外側」の人だった。クシュ人——現在のスーダン北部にあたる地域の出身で、ユダヤ人ではない。宦官——律法の規定では、主の集会に加わることが制限される立場(申命記23章1節)。そして王宮に仕える使用人。
その彼に、神はこう約束される。
わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。(39章18節)
理由は、たった一つだけ記されている。信頼したから。
この語はバータハ。しばしば「体重をあずけて寄りかかる」というイメージで説明される。全身をあずけて、安心して身を投げ出すような信頼のことだ。
彼の勇気でも、機転でも、身分でもなかった。神が数え上げられたのは、信頼だけだった。
なお「いのちを分捕り物として得る」という表現は、エレミヤ書の中で繰り返される定型句で(21章9節、38章2節、39章18節、45章5節)、すべてを失って命だけ持ち帰るという戦場の比喩である。
神の約束は「あなたは何も失わない」ではない。「命だけは持って帰れる」だった。
飾りのない約束だ。しかし、確実な約束でもある。
三代にわたる家
39章14節に、もう一つ見逃したくない名前がある。
エレミヤを、監視の庭から連れ出し、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに渡して、その家に連れて行かせた。(39章14節)
この家系をたどると、驚くべきことが見えてくる。
シャファン——ヨシヤ王の書記官。神殿から発見された律法の書を、王の前で朗読した人物である(列王記第二22章)。ヨシヤの宗教改革は、この朗読から始まった。
アヒカム(シャファンの子)——エレミヤが祭司たちに殺されそうになったとき、彼をかばって守った人物(エレミヤ書26章24節)。
ゲダルヤ(アヒカムの子)——今日の箇所で、エレミヤを自分の家に引き取った人物。後にバビロンからユダの総督に任じられる。
さらに、ゲマルヤ(シャファンの子)とその子ミカヤは、エホヤキム王が巻物を焼こうとしたとき、それを止めようとした人々だ(エレミヤ書36章)。
三代にわたって、この一族はみことばの側に立ち続けている。 祖父は律法を朗読し、父は預言者をかばい、子は預言者を家に迎えた。
聖書は、この一族の動機について何も語らない。信仰告白も、内面の描写もない。ただ、行動だけを世代を越えて並べていく。
申命記6章7節が命じた「子どもたちによく教え込みなさい」——刃を研ぐ作業——が、実際に一つの家で三代続いた記録を、私たちはここで読んでいることになる。
町は焼かれ、神殿は灰になった。しかし、みことばの側に立ち続けた家系は残った。
そして次の箇所で、その「残るもの」が何であったかが、はっきりと語られる。
第三部 ことばが住む——コロサイ人への手紙3章
手紙の届いた場所
この手紙が送られたコロサイという町について、少し知っておくと読み方が変わる。
コロサイは小アジア(現在のトルコ西部)、リュコス川の谷にあった。近隣にラオディキアとヒエラポリスがある。かつては羊毛の染色業で栄えたが、パウロの時代にはすでに衰退し、三つの町の中で最も小さな田舎町になっていた。
しかもパウロは、この町を訪れたことがない。「私が……直接顔を合わせたことのない人たちのために」(2章1節)と本人が書いている。エパフラスという弟子が伝道して生まれた教会だった。
そしてこの地域には、大きなユダヤ人共同体があった。数世紀前、セレウコス朝の王が反乱鎮圧のためにバビロニアから二千家族のユダヤ人をこの地方へ移住させた、という記録が歴史家ヨセフスに残っている。彼らは長い年月をかけて、ギリシア文化の中に深く溶け込んでいった。
つまりこの町の教会には、エルサレムから遠く離れた場所で、二つの世界のはざまに生きる人々がいた。エレミヤが記録した崩壊の後、離散した民の子孫たちが、ギリシア語で書かれた手紙を受け取っている——そう考えると、この手紙の言葉がまた違って響いてくる。
「上にあるものを求めなさい」
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。(3章1節)
「求めなさい」の原語はゼーテオー。探し求める、追い求める。ここでは継続を表す形になっていて、一度探して終わりではなく、探し続けなさい、という意味になる。
続く2節、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」の「思う」はフロネオー。これは単なる思考ではなく、思考の向きを指す語だ。心のコンパスをどこに合わせるか、という問題を語っている。
つまりパウロが言っているのは、「地上のことを考えるな」ではない。私たちは今日の食事も家賃も考えなければ生きていけない。そうではなく、針がどこを指しているかを問うている。
奪えない場所
そして3節に、この手紙の中でも最も静かで、最も力強い一句が置かれる。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(3章3節)
「隠されてある」——原語はケクリュプタイ。完了形の受動態だ。
ギリシャ語の完了形は、「過去に起こって、その結果が今も続いている」ことを表す。つまり、過去のある時点で隠され、今もその状態のままだ、ということになる。
英語の「crypt(地下納骨所)」や「cryptic(謎めいた)」は、この語から来ている。誰の手も届かない場所に、しまわれている。
エレミヤ39章を読んだ直後にこの言葉を読むと、重みが違ってくる。
ユダの人々は、すべての「場所」を失った。神殿も、王宮も、城壁も、家も。彼らのアイデンティティは土地と建物に結びついていた。それが全部灰になった。
その民の子孫たちが読む手紙に、こう書かれている。あなたがたのいのちは、神のうちに隠されている、と。
バビロンの兵士にも、ローマの兵士にも、届かない場所がある。
殺してしまいなさい、という強い言葉
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。(3章5節)
穏やかな言葉ではない。原語ネクローサテは「死体にする」という意味の動詞で、しかも一回的・決定的な行為を表す形が使われている。
「だんだん弱めていきなさい」ではない。一度で片をつけよ、という命令形だ。
そして興味深いのは、リストの最後に置かれた「むさぼり」への注釈である。
このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(3章5節)
「むさぼり」はプレオネクシア。プレオン(もっと多く)+エコー(持つ)——「もっと持ちたい」という欲求そのものを指す。
パウロはこれを偶像礼拝と呼ぶ。神以外のものに究極の価値を置き、そこに信頼を寄せる行為だからだ。
ここで申命記6章5節を思い出したい。「力を尽くして」の「力」はメオード——ユダヤ的解釈では「財産」を含んでいた。
持ち物のすべてで神を愛せ、と命じられた。そして持ち物への執着そのものが偶像礼拝だ、とパウロは言う。同じ場所を、旧約と新約が別の角度から照らしている。
すでに脱いだ、すでに着た
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。(3章9-10節)
ここは訳の細部が大切だ。
「脱ぎ捨てて」も「着た」も、原語ではすでに完了した動作を表す形になっている。命令ではない。事実の確認だ。
つまりパウロは「脱ぎなさい」と命じているのではなく、「もう脱いだのだから」と言っている。だから偽りを言うな、と。
順番が逆なのだ。「正しく生きれば新しい人になれる」ではない。「もう新しい人にされたのだから、それにふさわしく生きよ」。福音の論理は、いつもこの順序をとる。
この「脱ぐ・着る」の表現は、初代教会の洗礼式と響き合っている。受洗者は古い衣を脱ぎ、水から上がって白い衣を着た。さらに遡れば、祭司の任職も装束を着せる儀式だった。
そして10節、「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ」——「かたち」はエイコーン。創世記1章27節、人が神の「かたち」に造られたという、あの言葉と同じ語である(ギリシャ語訳旧約でこの語が使われている)。
創造のときに与えられ、失われたものが、キリストにあって回復されていく。
最も低い場所の名前
11節のリストは、ただの列挙ではない。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。(3章11節)
当時の社会的序列を、上から下へ降りていく構成になっている。
「未開人」はバルバロス。ギリシャ語を話さない者を指す蔑称で、彼らの言葉が「バルバル」と聞こえたことに由来する。文明の外側にいる者、という意味だ。
そしてスクテヤ人(スキタイ人)。黒海北岸の遊牧民である。ギリシア・ローマ世界では「最も野蛮な者」の代名詞だった。ヨセフスは彼らを野獣に近いと書いている。バルバロスのさらに下、当時の人々が想像しうる最底辺の名前だ。
パウロは、あえてその名を挙げた。そのうえでこう続ける。
キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(3章11節)
ここで、エレミヤ39章を振り返ってほしい。
神が名指しで「わたしはあなたを救い出す」と語られたのは、ユダの王でも首長でも祭司でもなく、クシュ人の宦官だった。律法の規定では主の集会に加われない立場の、外国から来た使用人。
旧約で「区別の外」に置かれていた人が救われ、新約で「区別はない」と宣言される。
エベデ・メレクは、パウロが書いたこの一句を先取りして生きていた人だったのかもしれない。
はらわたから湧くもの
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(3章12節)
「深い同情心」と訳された語はスプランクナ。もともとの意味は内臓、はらわたである。
ヘブライ語でも同じ発想がある。「憐れみ」を意味するラハミームは、「子宮」を意味する語と同じ語根から来ている。
古代の人々にとって、憐れみとは頭で考えるものではなく、腹の底でよじれるように湧いてくるものだった。
福音書で、イエスが群衆を見て「深くあわれまれた」と書かれるとき、この語の動詞形が使われている。飼う者のない羊のような群衆を見たとき、イエスの内臓がよじれた、と福音書記者は書いた。
エベデ・メレクが、ぼろ切れを脇に当てさせたときの動きも、おそらくこれだ。頭で考えた配慮ではなく、腹から出た動きだった。
心の中の審判員
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。(3章15節)
「支配する」と訳されたブラベウエートーは、競技用語である。ブラベウスとは、競技場で勝敗を判定し、賞を授ける審判員のこと。
だから、この語の含みを汲むと、こうなる——「キリストの平和が、あなたがたの心の中で、競技の審判員のように裁定を下せ」。
注解書によっては、競技場の背景よりも「裁定する・決定を下す」という一般的な意味を前面に置くものもある。いずれにせよ、この語が判断を下す働きを指していることは変わらない。
私たちの心の中では、いつも複数の思いが競い合っている。行くべきか、留まるべきか。言うべきか、黙るべきか。
その判定席に、誰が座るのか。パウロは「キリストの平和」だと言う。
「平安があるかどうかで判断する」という信仰生活の実践は、この一語に根拠がある。感情としての安らぎのことではない。キリストがもたらす和解の状態が、判定基準になる、という意味だ。
そして直後、「感謝の心を持つ人になりなさい」と続く。「感謝」はエウカリストス——エウ(善く)+カリス(恵み)。恵みを恵みとして受け取る態度のことだ。
部屋を貸す、という言葉
そして16節。ここが、今日の記事の到達点になる。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(3章16節)
「住まわせ」の原語はエノイケイトー。エン(〜の中に)+オイケオー(住む)。
オイケオーはオイコス(家)と同じ語根から来ている。家に住む、という語だ。
みことばは、心の中に一泊する客ではない。荷物を下ろし、部屋を整え、そこに住みつく。
しかも「豊かに」(プルーシオース)。狭い物置に押し込めるのではなく、家じゅうを自由に使わせる。
ここで、申命記6章と並べてみたい。
| 申命記6章 | コロサイ3章 |
| これらのことばを心に刻みなさい | キリストのことばを豊かに住まわせ |
| 子どもたちによく教え込みなさい | 知恵を尽くして互いに教え |
| 家にすわるときも、道を歩くときも唱えなさい | 詩と賛美と霊の歌とにより歌いなさい |
| 御名によって誓わなければならない | すべて主イエスの名によってなし |
シェマーが、教会の中で生き直されている。
しかも変化がある。申命記では「子どもたちに教えよ」だった。コロサイでは「互いに教え、互いに戒め」になっている。教える人と教えられる人の関係が、家族の縦の線から、共同体の相互の関係へと広がった。
そして、家庭へ降りていく
注目したいのは、16-17節の直後に何が来るかだ。
妻たちよ……夫たちよ……子どもたちよ……父たちよ……(3章18-21節)
みことばが住むという話をした直後に、パウロは家庭の話を始める。
申命記6章も同じ順序だった。「心に刻め」「子どもに教え込め」——そして「家の門柱と門に書きしるせ」。
どちらも、みことばを家の中に降ろしていく。
信仰は、礼拝堂の中だけで完結しない。妻と夫、親と子、雇う者と働く者。日常の最も近い関係の中で、それがどう現れるか。そこまで届いて初めて、みことばは「住んでいる」と言えるのだろう。
そして17節が、そのすべてを包む。
あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(3章17節)
聞いたことばが、心に住み、家に降り、日々の行いのすべてを覆っていく。
シェマーが命じた「聞け」は、ここまで来た。
第四部 門柱から、心へ——三つの箇所を貫くもの
「聞け」から始まった旅
今日読んだ三つの箇所を、一本の線でたどってみたい。
始まりは、申命記6章の一語だった。シェマー——聞け。
そして見たとおり、ヘブライ語のこの「聞く」は、耳の話ではなかった。聞いて、体が動くところまでが一語に含まれている。
エレミヤ書38章は、その真実を残酷なほど正確に描いていた。四人の人物が、同じ言葉を聞いた。首長たちは聞いて憎み、王は聞いて動けず、一人の外国人の宦官は聞いて走り出し、預言者は聞いたことを語り続けた。
聞いた時点では、四人とも同じだった。 分かれたのは、そのあと体が動いたかどうかだけだった。
そしてコロサイ3章で、その「聞いたことば」が行き着く先が示される。心の中に住みつく。
聞くことから、住むことへ。今日の三箇所は、この移動の物語になっている。
ことばが置かれた場所の変遷
もう少し具体的に見てみたい。「ことばはどこに置かれるか」という一点を追うと、驚くほど明確な流れが見えてくる。
申命記6章9節——門柱に書け
これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
ユダヤ人はこれを文字どおり実行し、メズーザーを家の入口に取り付けた。ことばは、家の外側に貼られた。出入りするたびに目に入り、指で触れる場所に。
エレミヤ39章8節——その家が焼かれた
カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。
門柱ごと、家は灰になった。ことばを書きつけた場所そのものが失われた。
申命記6章が「あなたが建てなかった町々、あなたが満たさなかった家々」と並べた、その一覧が、そのまま失われたものの一覧になった。
コロサイ3章16節——内側に住む
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ。
ことばは、家の外壁を離れて、人の内側に住居を得た。エノイケオー——中に住む。仮住まいではなく、そこに居を定める。
門柱は焼かれた。しかし、この新しい住まいは焼けない。
【図解②】ことばが置かれた場所の変遷(門柱→焼かれた家→内に住む→キリストが住まわれる)
では、そこに誰が住むのか
ここまで来ると、一つの問いが残る。
内側に住むのは「ことば」である。では、そのことばの主ご自身はどうなのか。
パウロは別の手紙で、この問いに答えている。エペソ人への手紙3章17節。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
ここで使われている動詞がカトイケオー。コロサイ3章16節のエノイケオーと、同じオイケオー(住む)が土台にある。
どちらも土台は同じだが、語としての性格には違いがある。
エノイケオーは「〜の中に住む」。内側に居を定めることを指す。
カトイケオーは、新約で最も一般的な「住む」の語で、定住する・居住するという意味を持つ。一時的な滞在ではなく、そこを自分の住所とすること。
この語の性格は、対義語と並べるとはっきりする。パロイケオーは「寄留する」——外国人として仮住まいすること。ヘブル人への手紙11章9節で、アブラハムが約束の地に「寄留した」と書かれているのがこれだ。
パウロが祈ったのは、寄留ではなく、定住だった。
ことばが住む家に、ことばの主ご自身が、腰を据えて住まわれる。
これが、シェマーの命令が最終的に行き着いた場所だった。
「家族」という言葉の出どころ
エペソ3章の祈りには、もう一つ見逃せない仕掛けがある。
祈りが始まる15節を見てほしい。
天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
「家族」の原語はパトリア。この語は、パテール(父)から派生している。「父から出た一族」という意味だ。
日本語では見えないが、ギリシャ語では、父(パテール)と家族(パトリア)が一つの語根で結ばれている。父がいるから、家族という言葉が存在する。パウロはこの語源そのものを使って、「すべての家族の名の元である父」と言っている。
そして、その父の御前で祈られる内容が、17節の「キリストを住まわせてください」だった。
家族(パトリア)の語のあとに、住む(カトイケオー)の語が来る。
家族という言葉の出どころである父が、その子であるキリストを、私たちの内側に住まわせてくださる。門柱に札を掛ける家ではなく、父と子が住まわれる家に、私たちがされる。
焼かれた神殿の寸法
もう一段、深いところがある。
エペソ人への手紙2章21-22節で、パウロは教会をこう呼んでいた。
主にあって聖なる宮に成長し……神の御住まいとなるのです。
「御住まい」の原語カトイケーテーリオンは、まさにカトイケオーの名詞形である。
そして3章18-19節で、パウロは祈りの中でこう願う。
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
広さ、長さ、高さ、深さ。四つの次元を測る言葉。
エゼキエル書40章から42章に、御使いが竿を持って新しい神殿を測る、長大な場面がある。長さはこれだけ、幅はこれだけ、と延々と寸法が記録される。神殿は測られるものだった。
エレミヤ39章で、その神殿は焼かれた。石は崩れ、寸法は意味を失った。
そして数百年後、パウロは新しい寸法を語る。測られるべきは石造りの建物ではなく、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さである、と。
しかもその寸法は「人知をはるかに超えた」——測り終えることができない。
焼かれた神殿の寸法を、測りきれない愛の寸法が引き継いだ。
「唯一」という語が残していたもの
第一部で、シェマーの一句に触れた。「主はただひとりである」——この「ひとり」はヘブライ語でエハッドという。
ここで、少しだけ立ち入った話をしたい。
ヘブライ語には「唯一」を表す語がもう一つある。ヤヒード。こちらは絶対的な単一を意味し、他に類のない一つを指す。創世記22章2節、神がアブラハムに「あなたのひとり子イサク」と言われたときの語がこれだ。
シェマーが選んだのは、ヤヒードではなくエハッドだった。
エハッドという語は、複数のものが一つになる場合にも用いられる。創世記2章24節、「ふたりは一体となる」がエハッド。民数記13章23節、偵察隊が二人がかりで担いだ巨大なぶどうの房も、「一房」でエハッドである。
ここで大切なのは、この語だけから何かを証明しようとしないことだ。
エハッドが複合的な一体を表しうるのは事実だが、単純な数の「一」にも使われる。だから「エハッドだから三位一体だ」とは言えない。逆に「ヤヒードでないから単一神ではない」とも言えない。この語の選択をどう理解するかについては、ユダヤ教にもキリスト教にも複数の議論がある。
ただ、事実として記録しておきたいことがある。十二世紀のユダヤ教の代表的な学者マイモニデスが「十三信条」を編んだとき、彼はシェマーのエハッドではなく、ヤヒードを用いて「神はヤヒードである」と定式化した。
なぜそうしたのかについては、様々な説明がなされている。
私たちが確かに言えるのは、シェマーが「主はエハッドである」と告げた、その唯一性が、新約において父・子・聖霊という証言と結び合わされていく、ということだ。旧約が閉じた形で語らなかったところに、新約が光を当てている。
今日読んだエペソ3章の祈りには、その三者が揃っている。
御父の前に祈る(14-15節)。御霊により、内なる人が強められる(16節)。キリストが、心のうちに住まわれる(17節)。
シェマーが「聞け、主はエハッドである」と告げた、その唯一の神が、御父の御旨から、御霊の力によって、御子ご自身が住まわれるという仕方で、一人の人間の内側に来られる。
証人となる家
第一部で、トーラーの巻物の書式に触れた。シェマーの節では二つの文字だけが大きく書かれ、その二文字を並べるとエード——「証人」という語になる、と。
聞け、と命じられた民は、証人となるために聞いた。
そしてコロサイ3章16節を、もう一度読んでみてほしい。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
ことばが内に住んだ人は、黙っていない。教え、戒め、歌う。
申命記では「子どもたちに教え込め」だった。それが「互いに」に広がった。証人は、一つの家系の中だけでなく、共同体全体へと広がっていく。
エベデ・メレクを思い出したい。彼は外国人で、律法の規定では主の集会に加われない立場の宦官だった。血筋によってこの民に属したのではない。しかし彼は聞いて、走った。そして神は彼の名を呼び、「あなたがわたしに信頼したからだ」と言われた。
血筋でも資格でもなく、信頼が問われた。
パウロが「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません」(コロサイ3章11節)と書いたとき、その言葉はエベデ・メレクにまで遡って届いている。
家を失った民に、家が与えられる
まとめたい。
申命記6章は、与えられた家を忘れるなと命じた。
エレミヤ39章は、忘れた民が家を失った記録である。
コロサイ3章は、焼かれない家があると告げる。「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」——過去に隠され、今もその状態が続いている。誰の手も届かない。
そしてエペソ3章は、その家に誰が住まわれるのかを祈る。
門柱に札を掛けていた民が、自分自身が住まいとなる。
パウロがこの祈りを「膝をかがめて」(3章14節)祈ったことにも、意味がある。当時のユダヤ人が祈るときの通常の姿勢は、立つことだった。膝をかがめるのは、特別に切迫した祈りのときに限られる。
パウロは、この一事のために膝をついている。キリストが、一人ひとりの心の中に住まわれるように、と。
その祈りを、そのまま読んでみたい。ギリシャ語の原文では、14節から19節までが句点で区切られない一続きの文になっている。パウロが息継ぎなしで祈り上げた、一つの呼吸である。
エペソ人への手紙3章14-19節(新改訳2017)
こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
聞け、と三千年前に告げられた言葉は、ここまで来た。
門柱から、心へ。
そして、あなたの心という家に、今日も主が住まわれようとしている。
※本記事の聖句引用は、特に断りのない限り『聖書 新改訳』©2003 新日本聖書刊行会 による。エペソ人への手紙3章14-19節は『聖書 新改訳2017』©2017 新日本聖書刊行会 による。
原語のまとめ
ヘブライ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| שְׁמַע | シェマー | 聞け(シャマの命令形) |
| שָׁמַע | シャマ | 聞く/聞き従う |
| לֵבָב | レバーブ | 心(意志と決断の座) |
| נֶפֶשׁ | ネフェシュ | いのち・息・存在 |
| מְאֹד | メオード | 非常に(副詞)→力・財産 |
| שָׁנַן | シャナン | 研ぐ/繰り返し教え込む |
| אָהַב | アーハブ | 愛する(忠誠を含む) |
| אֶחָד | エハッド | 一・唯一(複合的一体にも用いる) |
| יָחִיד | ヤヒード | 唯一・ひとり子 |
| עֵד | エード | 証人 |
| מַסָּה | マサ | 試み(地名/普通名詞。נסהと同語根) |
| צִדְקִיָּהוּ | ツィドキヤーフー | 主は私の義(ゼデキヤ) |
| יְהוָה צִדְקֵנוּ | アドナイ・ツィドケーヌー | 主は私たちの義(エレ23:6) |
| עֶבֶד מֶלֶךְ | エベデ・メレク | 王の僕(エベド+メレク) |
| טִיט | ティート | 泥 |
| בּוֹר | ボール | 穴・貯水槽 |
| בָּטַח | バータハ | 信頼する(寄りかかる信頼) |
| שָׁלָל | シャラール | 分捕り物 |
| אַצִּלוֹת יָדַיִם | アツィロート・ヤダイム | わきの下(手の関節)旧約に3回 |
| רַחֲמִים | ラハミーム | 憐れみ(子宮と同語根) |
| יֵצֶר | イェツェル | 傾き・性向(ラビ用語) |
ギリシャ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| ζητέω | ゼーテオー | 求める・探し続ける |
| φρονέω | フロネオー | 思う・志向を定める |
| κέκρυπται | ケクリュプタイ | 隠されている(完了形受動) |
| νεκρώσατε | ネクローサテ | 殺してしまえ(一回的命令) |
| πλεονεξία | プレオネクシア | むさぼり(もっと持ちたい欲) |
| ἀπεκδυσάμενοι | アペクデュサメノイ | 脱ぎ捨てて(完了した動作) |
| ἐνδυσάμενοι | エンデュサメノイ | 着て(完了した動作) |
| εἰκών | エイコーン | かたち・像 |
| βάρβαρος | バルバロス | 未開人(ギリシャ語を話さない者) |
| Σκύθης | スキュテース | スクテヤ人 |
| σπλάγχνα | スプランクナ | はらわた/深い同情心 |
| βραβευέτω | ブラベウエートー | 裁定せよ(審判員として) |
| εὐχάριστος | エウカリストス | 感謝する(エウ+カリス) |
| ἐνοικείτω | エノイケイトー | 住まわせよ(エン+オイケオー) |
| πλουσίως | プルーシオース | 豊かに |
| κατοικέω | カトイケオー | 定住する・居住する |
| παροικέω | パロイケオー | 寄留する・仮住まいする |
| κατοικητήριον | カトイケーテーリオン | 住まい(エペ2:22) |
| πατήρ/πατριά | パテール/パトリア | 父/家族 |
| οἶκος | オイコス | 家 |

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