聖書通読 2026.5.19 民数記3章1-13節/箴言9-10章/ローマ1章1-23節 ——主のものとされた者たちの近づき方——

ヘブライ語
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「神を知っていながら」とパウロが告発するとき、それは未信者全員が裁かれてしまうという宣告なのだろうか。一般啓示と特別啓示——この区別を見落とすと、ローマ書1章の福音は誤って読まれてしまう。今日の通読は、民数記3章のレビ人の任命、箴言9-10章の二つの招き、ローマ1章の福音の宣言を貫いて、「神を神とする」とはどういうことかを多角的に示している。三つの場面の奥に流れる「主のもの」という一本の糸を、ヘブライ語とギリシャ語の原語をたどりながら見ていきたい。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:神に取り分けられた者たち——民数記3:1-13

民数記3章は、ある系図から始まる。「【主】がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図」(v.1)。ところがこの「系図」、よく読むと不思議だ。最初に挙げられるのはアロンの四人の息子——ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル(v.2)。モーセの子は出てこない。

ここに、3章全体の主題が静かに示されている。祭司の系譜は、血統だけでなく、神の召しによって立てられるということだ。モーセにも息子はいたが、祭司として召されたのはアロンの家系だった。

その四人の息子のうち、ナダブとアビフは早々に物語から消える。「シナイの荒野で【主】の前に異なった火をささげたとき、【主】の前で死んだ」(v.4)。

「異なった火」——ヘブライ語ではエーシュ・ザラー。「ザラー」は「よそ者の」「他所からの」「神に属さない」という意味の形容詞だ。神が命じられた仕方ではなく、自分たちが思いついたやり方で神に近づこうとした。神に近づく道は、神ご自身が定められた道でなければならない——この厳粛な原則が、レビ記10章の事件としてここで再び呼び起こされている。

注目したいのは、3章の冒頭でわざわざこの出来事が想起されている理由だ。これから神は、神に近づくための新しい秩序を語ろうとしている。だからこそ、「正しい近づき方とは何か」をまず思い出させる必要があった。

次に語られるのが、レビ人の任命だ。「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ」(v.6)。

「レビ」という名前そのものに、深い意味が込められている。創世記29章でレアがレビを産んだとき、彼女は「今度こそ、夫は私と結びつくでしょう」と言って名付けた。「結びつく」という意味のラーヴァーという動詞から来ている。「レビ」とは「結びつく者」——夫婦が結ばれるように、神と人を結びつける役目を担う者たち、という名前の響きがある。

レビ人はアロンに「あてがわれた」(v.9)。ここで使われているのは「与えられた」「贈り物として渡された」という強い表現だ。神からアロンへの賜物として、レビ人は手渡された。

そして11節から、最も大切な宣言が続く。

「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした」(v.12)

ここで使われている前置詞が重要だ。「〜の代わりに」——ヘブライ語ではタハト。これは「〜の下に」「〜の場所に」という基本義から、「身代わりに」という意味で使われる。創世記22章でアブラハムが息子イサクの代わりに雄羊を捧げたとき、同じ前置詞が使われている。「雄羊をその子の代わりにささげた」(創世記22:13)。

レビ人は、イスラエルすべての初子の身代わりとして、神に取られた。

なぜ初子なのか。13節がその根拠を明かす。「エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは…イスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである」。

過越の夜、エジプトの初子は打たれ、イスラエルの初子は小羊の血によって贖われた。血によって贖われた初子は、もはや自分のものではない。神のものとなった——これがイスラエルの存在の根底にある事実だった。

「初子」のヘブライ語はベホール。単に「最初に生まれた者」ではなく、家督相続権を持つ者・特別な所有関係にある者を意味する重い言葉だ。神は「イスラエルはわたしの初子である」(出エジプト4:22)と宣言された。イスラエルそのものが神の初子であり、その初子の家の中の初子はなおさら神のものだった。

しかし、すべての初子が神に仕えるために生活を捧げるわけにはいかない。家族の働き手として必要だからだ。そこで神は驚くべき配慮をされた。レビ部族全体を、すべての初子の身代わりとして取る——つまり、各家庭の初子の代わりに、レビ人が神に仕える生涯を捧げる。

この構造は、新約に至って完全な形で実現する。神の独り子イエス様が、すべての人の身代わりとなって死なれた。レビ人の任命は、その遠い影だった。

3章の冒頭が「異なった火」の警告から始まり、結びで「初子の贖い」が語られるのは偶然ではない。神に近づく道は、神が定められた身代わりを通してのみ開かれる——これが第一部のメッセージだ。

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第二部:知恵の招きと愚かな招き——箴言9-10章

箴言9章は、聖書の中で最も鮮やかな対比の一つを描いている。二人の女性が、それぞれ自分の家から、通りを行く者たちに呼びかけるのだ。

一人は「知恵」(v.1)。彼女は家を建て、七本の柱を据え、いけにえをほふり、ぶどう酒を準備し、食卓を整えた上で、若い娘たちに使いをやって町の高い所で叫ばせる。「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」(v.4)。

もう一人は「愚かな女」(v.13)。彼女もまた家の戸口に座り、町の高い所から呼びかける。呼ぶ言葉までほとんど同じだ——「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」(v.16)。

ここに恐ろしい真実がある。滅びへの招きは、いのちへの招きとそっくりの言葉で響く。違いは内容にある。知恵は「わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」(v.6)と言うが、愚かな女は「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」(v.17)とささやく。

そして招かれた客の運命は決定的に違う。知恵の家で食卓に着く者には「あなたの日は多くなり、いのちの年は増す」(v.11)。愚かな女の家にいる客は、自分がよみの深みにいることを知らない(v.18)。

この対比のちょうど真ん中、9章の心臓部に、聖書全体の知恵を凝縮した一節が置かれている。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(v.10)

「主を恐れる」——ヘブライ語ではイルアト・アドナイと言う。「イルアー」は「恐れ」だが、ここでの恐れは恐怖ではない。畏敬の念、神を神として認め、その偉大さの前にひれ伏す心の姿勢を指す。タイトルの「神を神として」とは、まさにこの「イルアト・アドナイ」のことだ。

そして「知恵の初め」の「初め」はレーシート。創世記1:1の「初めに、神は天と地を創造された」の「初め」と同じ語根を持つ。「レーシート」は時間的な始まりだけでなく、最も大切なもの・第一原理という意味も持つ。主を恐れることは、知恵そのものの土台であり、第一原理である

後半の「聖なる方を知る」が、また興味深い表現になっている。ヘブライ語ではダアト・ケドシム。「ケドシム」は「聖なる方」の複数形だ。

旧約聖書には、一見複数形のように見えるが単数の神を指す表現がいくつかある。「エロヒム」(神)もそうだ。これは威厳の複数(plural of majesty)と呼ばれ、神の偉大さ・豊かさを表すヘブライ語独特の用法だと説明される。

ただし、新約の光の中で振り返るとき、聖書の中に三位一体を予感させる響きを聞き取らずにはいられない箇所がいくつかある。創世記1:26の「われわれに似せて、人を造ろう」、創世記3:22の「われわれのひとりのようになった」——そしてこの箴言9:10の「聖なる方々を知ること」。畏敬と知識——神を神として恐れる心と、神ご自身を関係的に知ることが、知恵と悟りの源だと言われている。

10章に入ると、ソロモンの短い格言が次々と並ぶ。一見、雑多な人生訓に見えるが、注意して読むと「正しい者」と「悪者」の徹底した対比が貫かれていることに気づく。

「正しい者の頭には祝福があり、悪者の口は暴虐を隠す」(v.6)、「正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す」(v.11)、「正しい者の舌はえり抜きの銀。悪者の心は価値がない」(v.20)——口、舌、心、頭、手、足、報酬、寿命、希望……生活のあらゆる場面で、二つの道が交差しながら走っていく。

10章の中で特に光る一節がある。

主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」(v.22)

ヘブライ語で「祝福」はベラハー。「ひざをかがめる」を意味するバーラフから来ている言葉で、もともとは「ひざまずいて受ける恵み」というニュアンスを持つ。人が額に汗して稼ぐ富と、ひざまずいて主から受ける祝福は、性質が違うということだ。

そしてもう一つ。10章27節は9章10節と美しく呼応している。

「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる」(v.27)

知恵の家で食卓に着く者の「いのちの年は増す」(9:11)という約束が、10章の最後近くで再び響いている。

主を恐れること——これが箴言9-10章の通奏低音だ。神を神として認めず、自分の判断で「盗んだ水は甘い」と言って近づく道は、表面は同じ招きの言葉に見えても、行き着く先はよみの深みだ。

第一部で見た「異なった火」と「定められた身代わりによる近づき」の対比が、ここでは「愚かな女の家」と「知恵の家」の対比として、生活の場面に翻訳されている。

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第三部:神を神として——ローマ1:1-23

ローマ書は、パウロが自分自身をどう紹介するかから始まる。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(v.1)。

ここに、三つの自己理解が圧縮されている。

「しもべ」——ギリシャ語ではドゥーロス。「奴隷」を意味する強い言葉だ。ローマ世界では奴隷は人格を持たない所有物として扱われたが、旧約の七十人訳ではモーセ、ダビデ、預言者たちが「主のしもべ(ドゥーロス)」と呼ばれる栄誉の称号でもあった。

「使徒として召された」——「使徒」のギリシャ語アポストロスは、「遣わされた者」「派遣された使者」を意味する。「召された」(クレートス)は受動態的で、自分が手を挙げたのではなく、神から呼び出された立場を表す。

「神の福音のために選び分けられ」——「福音」のギリシャ語エウアンゲリオンは、「良い」を意味する「エウ」と「告げ知らせ」を意味する「アンゲリア」からなる合成語。ローマ皇帝が即位したときや戦勝報告が届いたときに使われた言葉だった。パウロはこの世の王の戴冠ではなく、真の王イエス・キリストの戴冠を告げ知らせる者として、自分を理解している

第一部のレビ人が「主のもの」とされたように、パウロもまた「主のしもべ・使徒・選び分けられた者」として、神に取り分けられた一人だった。

そして1:16-17で、ローマ書全体の主題が宣言される。

「私は福音を恥とは思いません。福音は…信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(v.16)

「神の力」——ギリシャ語でデュナミス。この言葉から、後にダイナマイトが命名された。福音は、頭の中の観念ではなく、人を変革する爆発的な力そのものだ

「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」(v.17)。「義」のギリシャ語ディカイオシュネーは、「神の前に正しい状態にあること」を指す。そしてこの義は、行いではなく信仰によって与えられる。「義人は信仰によって生きる」——これはハバクク2:4からの引用で、宗教改革者マルティン・ルターの心を解き放った一節として知られている。

ここから18節以降、パウロはなぜ福音が必要なのかを語り始める。それは、人類全体が神の前に弁解の余地のない状態にあるからだ。

「神の怒りが天から啓示されている」(v.18)。「啓示されている」——ギリシャ語アポカリュプトーは、「覆いを取り除く」が原義。新約最後の書「ヨハネの黙示録」の「黙示」も同じ語根だ。神の義も(v.17)、神の怒りも(v.18)、覆いを取り除かれて現れている——この対比は意図的に置かれている。

そして注目したいのが、人々が真理を「はばんでいる」という表現だ。ギリシャ語のカテコーは、「押さえつける」「下に保つ」という意味。真理を見えなくしているのではなく、真理を押さえつけている——つまり、真理は確かにあって、その圧力に対抗するように人は抑え込んでいる、という構図だ。

なぜ抑え込めるのか。それは、抑え込むべき真理がすでに与えられているからだ。

「神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」(v.19-20)。

これが一般啓示と呼ばれるものだ。星空、海、人体、季節の巡り——被造物そのものが、創造者の存在と性質を声なく語っている。詩篇19:1「天は神の栄光を語り告げ」とまったく同じ思想だ。

ただしここで、ローマ書を読むときに混乱しやすい点を整理しておきたい。

一般啓示によって人が得るのは、「神という存在がいる」という基本的な認識だ。救いに至る関係的な知識ではない。救いに至る神の知識は、御子イエス・キリストの福音という特別啓示を通して、聖霊が悟らせてくださることでのみ与えられる(1コリント12:3、2:14)。

では18節以降でパウロが告発しているのは何か。それは、一般啓示で与えられた最低限の真理を、人々が押さえつけているということだ。「神がいる」と気づきながら、その神に栄光を帰さず、感謝もしない態度だ。

その結果として、21節の決定的な宣言が来る。

「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました」(v.21)。

「神としてあがめず」——ギリシャ語ドクサゾーは、「栄光を帰する」という意味。「ドクサ」(栄光)から来ている。「感謝もせず」——エウカリステオーは、「良い恵みを覚える」という意味。聖餐式を意味する「ユーカリスト」もここから来ている。

神を神として認めることには、二つの応答が伴う。栄光を帰することと、感謝すること。この二つを欠くとき、人は神を知っていながら、神を神としていない

そして「思いがむなしくなり」——ギリシャ語マタイオオーは、「空虚になる」「無価値になる」という意味。七十人訳ではこの語が、伝道者の書(コヘレト)の冒頭「空の空。すべては空」のヘブライ語「ヘベル」の訳語として使われている

神に栄光と感謝を帰さなくなった人間の思考は、コヘレトの言う「ヘベル」——息のように消え去る空虚さに陥っていく。箴言9章で愚かな女の家の客が「よみの深みにいる」ことを知らなかったように、神を神としない者の思いは、自分でも気づかぬうちに空虚さに包まれていく

そして23節、ついに人類は「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」。「代える」——これは申命記4:16-18の警告(偶像を造ってはならない)とほぼ同じ言葉だ。パウロはギリシャ・ローマ世界に向けて、モーセの律法のメッセージを翻訳して語っている。

第一部のナダブとアビフの「異なった火」、第二部の「愚かな女の招き」、そして第三部の「神を神とせず、被造物に栄光を帰した人類」——三つの場面が、すべて「神を神とすることの失敗」として響き合っている。だからこそ、福音という「神の力」(v.16)が必要なのだ。

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第四部:神を神とする道——三つの場面を貫く一本の糸

民数記3章のレビ人、箴言9章の二つの招き、ローマ1章の人類の堕落——一見、まったく違う場面が並んでいるように見える。荒野の幕屋、王宮の知恵文学、ローマ帝国に届けられた書簡。時代も舞台も対象も違う。

しかし注意して読み直すと、三つの場面はすべて同じ問いを扱っていることがわかる。「人は、どのようにして神を神とするのか」という問いだ。

民数記3章は、外側からこの問いに答えている。ナダブとアビフは「異なった火」を捧げて死んだ。彼らは祭司だった——つまり、神への奉仕の現場にいた人々だ。それでも、自分の判断で神に近づこうとしたとき、神の臨在は彼らを焼いた。正しい職務についていることと、正しい仕方で神に近づくことは違う

そして神は、新しい近づき方を備えられた。レビ人を、すべての初子の身代わりとして取る(v.12)。誰もが自分で祭司の務めを果たすことはできない。神に近づくには、神が定められた身代わりを通る必要がある。これが、新約のキリストの十字架を遠く指し示す影だ。

箴言9-10章は、内側から同じ問いに答えている。「主を恐れることは知恵の初め」(9:10)——イルアト・アドナイは、神を神として認める内面の姿勢を表す。

ここで興味深いのは、知恵の家にも愚かな女の家にも、招きの言葉はそっくり同じだという事実だ(9:4と9:16)。外側の言葉では区別できない。違いは、招く者が誰か、そして招きの実質が何かにある。知恵は食卓を整え、いけにえを備え、ぶどう酒を用意して招く。愚かな女は「盗んだ水」と「こっそり食べる食べ物」をささやく。

この対比は、神に栄光を帰する道と、自分の欲望を満たす道の対比だ。前者が「主を恐れる」道、後者が「神を神としない」道。

そしてローマ1章は、究極の視点からこの問いに答える。パウロは、人類全体の歴史を一つの宣告で要約する。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず」(v.21)。

注目したいのは、ここで使われている二つのギリシャ語動詞——ドクサゾー(栄光を帰する)とエウカリステオー(感謝する)——が、旧約のイルアト・アドナイ(主を恐れる)の新約的翻訳になっていることだ。神を神として恐れるという旧約の知恵が、新約では神に栄光を帰し、感謝するという具体的な応答として描き直されている。

つまり、「神を神とする」とは:

—— 行為として:神が定められた身代わり(レビ人、そして究極的にはキリスト)を通って近づくこと(民数記3章)

—— 内面として:主を恐れ、知恵の家の招きに応じること(箴言9-10章)

—— 応答として:栄光を帰し、感謝すること(ローマ1章)

三つの場面は、神に近づくことの三つの側面を、それぞれ異なる角度から照らしている。

そしてもう一つ、深く響き合う糸がある。「主のもの」とされた者たちの存在だ。

民数記では、レビ人が「わたしのもの」と宣言される(v.12-13)。彼らは初子の身代わりとして、神に専有された人々だ。

箴言では、知恵の家の食卓に着く者たちが、いのちと長寿を受ける(9:6, 11)。彼らは知恵の招きに応じることで、知恵の家族に加えられた者たちだ。

ローマでは、パウロ自身が「キリスト・イエスのしもべ」(v.1)、ローマの信者たちが「イエス・キリストによって召された人々」「神に愛されている人々、召された聖徒たち」(v.6-7)と呼ばれる。

「主のもの」——この一つのキーワードが、レビ部族・知恵の家の客・福音に召された者たちを、聖書全体を通して一本の糸でつないでいる。神は今も、ご自身のものとして取り分ける者たちを召し続けておられる

今日の通読箇所が示しているのは、神への近づき方の歴史だ。シナイ山の幕屋で、エルサレムの王宮で、地中海世界の街々で——神は時代を超えて、同じ呼びかけを続けてこられた。「わたしを神としなさい。わたしのものとなりなさい」と。

そして新約の時代、ついに身代わりはレビ人を超えてキリストご自身となり、知恵の招きはキリストの十字架の食卓となり、栄光と感謝はキリストを通して父に捧げられるようになった。

民数記3章の祭司の系図が、最終的にヘブル書7章の「メルキゼデクの位に等しい大祭司イエス」へと向かっていく道を、私たちは今日歩いている。レビ人は身代わりだった。キリストは完全な身代わりだ

そして神に「召された聖徒たち」(ローマ1:7)が、今もこの世界で、神を神とする生き方を歩んでいる。この学びを通して、神を神とする生き方を絶えず選ぶことができるように、切に願う。

【原語語彙表】

ヘブライ語語彙表 — 民数記3章・箴言9-10章
原語 発音 意味と出典
אֵשׁ זָרָה エーシュ・ザラー 異なった火・よそ者の火(民3:4)
エーシュ=火、ザラー=よそ者の・神に属さない
לֵוִי / לוה レーヴィー/ラーヴァー レビ/結びつく(民3:6、創29:34)
「結びつく者」=神と人を結ぶ部族の名前の由来
תַּחַת タハト 〜の代わりに・身代わりに(民3:12、創22:13)
アブラハムの雄羊・イサクの場面と同じ前置詞
בְּכוֹר ベホール 初子・家督相続権を持つ者(民3:13)
単なる最初の子ではなく、神に属する特別な立場
יִרְאַת יְהוָה イルアト・アドナイ 主を恐れること・畏敬の念(箴9:10)
恐怖ではなく、神を神として認める内面の姿勢
רֵאשִׁית レーシート 初め・第一原理(箴9:10、創1:1)
時間的な始まりと「最も大切なもの」両方の意味
חָכְמָה ホクマー 知恵(箴9:1)
単なる知識ではなく、生き方としての賢明さ
בִּינָה ビーナー 悟り・識別力(箴9:10)
「分ける」を意味する語根バーンから派生
דַּעַת קְדֹשִׁים ダアト・ケドシム 聖なる方を知ること(箴9:10)
「聖なる方」は複数形(威厳の複数)。三位一体の響き
בְּרָכָה / בָּרַךְ ベラハー/バーラフ 祝福/ひざをかがめる(箴10:22)
祝福は「ひざまずいて受ける恵み」が原義
ギリシャ語語彙表 — ローマ1章
原語 発音 意味と出典
δοῦλος ドゥーロス しもべ・奴隷(ロマ1:1)
旧約LXXではモーセ・ダビデの栄誉ある称号
ἀπόστολος アポストロス 使徒・遣わされた者(ロマ1:1)
アポ(〜から)+ ステロー(遣わす)
κλητός クレートス 召された・呼び出された(ロマ1:1, 7)
自分で手を挙げたのではなく、神から呼ばれた立場
εὐαγγέλιον エウアンゲリオン 福音・良き知らせ(ロマ1:1)
エウ(良い)+ アンゲリア(告げ知らせ)
δύναμις デュナミス 力(ロマ1:16)
ダイナマイトの語源。人を変革する爆発的な力
δικαιοσύνη ディカイオシュネー 義(ロマ1:17)
神の前に正しい状態にあること
ἀποκαλύπτω アポカリュプトー 啓示する・覆いを取り除く(ロマ1:17,18)
「黙示録」の語源。神の義も怒りも覆いを取られて現れる
κατέχω カテコー 押さえつける・はばむ(ロマ1:18)
カタ(下に)+ エコー(持つ)。真理を上から押さえる
γινώσκω ギノースコー 知る・気づく(ロマ1:21)
経験的・関係的に知る動詞。文脈で深さが変わる
δοξάζω ドクサゾー 栄光を帰する・あがめる(ロマ1:21)
ドクサ(栄光)から派生
εὐχαριστέω エウカリステオー 感謝する(ロマ1:21)
エウ(良い)+ カリス(恵み)。聖餐式「ユーカリスト」の語源
ματαιόω マタイオオー むなしくなる・空虚になる(ロマ1:21)
LXXで伝道者の書「ヘベル(空)」の訳語
🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。
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