ある若者が、こんなふうに笑ったそうです。
「律法学者って、安息日に癒すことすらしちゃダメって言ってたんだろ? 頭おかしいよね、極端すぎ」
笑った彼を、責められるでしょうか。
これは、長年にわたって日本人の多くが抱いてきた「聖書のイメージ」の一つです。命を圧迫する硬直した掟の書、人間味のない宗教ルールの集合体——そう思われている『聖書』は、本当にそんな本なのでしょうか。
結論から言いましょう。それは大きな誤解です。
そして、その誤解を解いてみると、2000年前にこの誤解と正面から戦った一人の男の姿が見えてきます。彼は、命のために掟を破ったと言われた。しかし本当は、掟の心を取り戻したのです。
彼の名前は、もう少しだけ伏せておきましょう。
目次
第一部 「仕事をするな」は書いてある。しかし「癒すな」は書いていない。
まず、聖書本文を実際に開いてみたい。安息日の規定が記されているのは、旧約聖書のレビ記23章3節などいくつかの箇所だ。
そこには、確かにこう書かれている。
「六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたはいかなる仕事もしてはならない」
「仕事をしてはならない」——これは、はっきりと書かれている。
しかし、あの若者が笑った内容——「安息日には癒しもしてはいけない」——という記述は、レビ記のどこを探しても見つからない。出エジプト記にも、申命記にも、ない。
ではなぜ、2000年前のユダヤ教の真面目な学者たち(後に「律法学者」「ファリサイ派」と呼ばれる人々)が「安息日には癒しもしてはならない」と主張していた、というイメージが広まったのだろうか。
ここに、現代の私たちが見落としている重要なポイントがある。
聖書本文と、聖書の周りに作られた解釈書は、別物だ、ということ。
ユダヤ教では、聖書本文(モーセ五書)とは別に、後代のラビたちが「仕事とは具体的に何を指すのか」を細かく定義していった解釈書がある。それがミシュナ(紀元2世紀頃に編集)と呼ばれる文書群で、その中の「シャバット篇」7章2節には、安息日に禁じられた39種類の作業(ヘブライ語でメラハー)が列挙されている。
その39のリストの中に「物を砕く・粉にする」という項目があり、ここから派生して「薬を調合するのは『砕く』にあたる」→「だから治療行為も安息日に禁じる」という解釈が生まれていった。
つまり、若者が笑っているのは、レビ記そのものではない。レビ記から1000年以上後にユダヤ人たちが作った「律法の周りの垣根」(セヤグ・ラ・トーラー)の方なのだ。
「垣根」とは、興味深い言い方をする。聖書本文という大切な律法を守るために、その周りにもう一重、人間が作った補強ルールを巡らせる。「これ以上踏み込んだら危ない」という安全地帯を設ける、という発想だ。
意図そのものは、悪くなかった。聖書を真剣に守りたいという情熱から生まれた工夫だった。しかし、その「垣根」が時代を経て肥大化し、ついには聖書本文よりも分厚くなり、本来の聖書の心を覆い隠すまでになった。
ここで、構図がはっきり見えてくる。
笑われているのは「聖書」ではない。聖書の周りに、人間が善意で積み上げた「補強の壁」の方だ。土俵が、最初から違っていた。
第二部 実はユダヤ教自身が「命優先」を教えていた——ピクアハ・ネフェシュという原則
ここで、興味深い事実をお伝えしたい。
笑われている律法学者たち——「安息日には癒してはならない」と主張していた人々——は、実は、自分たちの伝統の中でも矛盾していた。
なぜか。
ユダヤ教自身が、聖書本文の解釈として、こう教えてきたからだ。
「命の危険がある時は、安息日のルールを破ってでも、命を救わなければならない」
これは、ユダヤ教の中でピクアハ・ネフェシュ(命の救済)と呼ばれる、極めて重要な原則だ。ピクアハとは「見守る、救う」、ネフェシュとは「魂、命」を意味するヘブライ語。直訳すれば「命を見守ること」「命の救済」となる。
この原則が公式に明文化されているのは、先ほども触れたミシュナのヨマ篇8章6節。そこにはこう書かれている。
「命の危険があるところでは、安息日のすべての規定が退けられる」
さらに後代のバビロニア・タルムード(ヨマ85b)では、ラビたちがこう論じている。
「一人の人が一日の安息日を破る方が、その人が将来多くの安息日を守るためによい」
つまり、彼ら自身が「命のためなら、ルールは退かなければならない」と教えていたのである。
ではなぜ、ラビたちはそう教えることができたのか。
その聖書的根拠は、旧約聖書のレビ記18章5節にある。
「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めとを守らなければならない。人がこれらを行うなら、これによって生きるのである。わたしは主である」
「これによって生きるのである」——ヘブライ語ではヴァハイ・バヘム(直訳:「彼はそれらによって生きるのだ」)。
ラビたちは、この一行に深い意味を読み取った。「神の律法は、人を生かすために与えられた。決して、人を死なせるためではない」と。律法は命の側に立つ。律法と命が対立する時は、命が優先される。これは聖書本文そのものが教えていることだった、と彼らは結論づけた。
ここで、最初の疑問の構図がまったく違って見えてくる。
笑われている律法学者たちは、本来こう言われるべきだったのだ。
「あなたがたの教えそのものが、命を優先するように命じている。それなのに、あなたがたはなぜ、目の前の病人を癒すことを禁じるのか」
そう、まさにこの問いを彼らに突きつけた人物が、2000年前のユダヤの地に現れる。
第三部 2000年前、その矛盾を突いた一人の男
ある時、ユダヤの地に一人の男が現れた。
彼は、安息日にあえて病人を癒した。それも、見せつけるように、人々の見ている前で。
ある安息日のこと。彼が会堂に入ると、片手の萎えた男がいた。律法学者たちは、彼を訴える理由を見つけようと、息を殺して見守っていた。「この男は本当に、安息日にあの病人を癒すだろうか」と。
彼は、手の萎えた男に「真ん中に立ちなさい」と言った。そして律法学者たちに向き直り、こう問うた。
「安息日に良いことをするのと悪いことをするのと、命を救うのと殺すのと、どちらが正しいか」(マルコの福音書3章4節)
これは、第二部で見たピクアハ・ネフェシュの原則そのものを、彼らに思い出させる問いだった。「命を救うのが正しい——あなたがた自身も、そう教えてきたではないか」と。
律法学者たちは、黙っていた。答えられなかった。彼らは自分たちの教えと、目の前の病人と、心の中の戦いの間で、何も言えなくなった。
その沈黙の中で、彼は手の萎えた男に言った。
「手を伸ばしなさい」
そして、男の手は元通りに伸びた。
別の安息日のこと。彼が別の会堂で教えていた時、18年間、腰が曲がって立ち上がることのできない女がいた。彼は女を呼び、こう言った。
「あなたは、その病から解放されました」
たちまち女は背中をまっすぐにし、神をあがめた。
会堂を治める者は怒って、群衆に向かって言った。「働いてよい日は6日もあるのだから、その日に来て癒してもらいなさい。安息日に来てはならない」と。
その時、彼が答えた言葉は、当時のラビたちの論法そのものだった。
「偽善者たち。あなたがたはだれでも、安息日に自分の牛やろばを牛舎から解いて、水を飲ませに連れて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのです。18年もサタンに縛られていた者を、安息日に解いてやってはいけないのか」(ルカの福音書13章15-16節)
これは、当時のラビ・ユダヤ教でカル・ヴァホメル(「軽きより重きへ」)と呼ばれる、由緒正しい論法だった。「軽いことが許されるなら、より重いことはなおさら許される」——つまり「家畜を解いて水を飲ませることが許されるなら、まして神のかたちに造られた人間を病から解いて立たせることは、どれほど正しいことか」と。
ここに、決定的なことが見えてくる。
この男は、律法を破ったのではない。律法の心を取り戻したのだ。
彼はラビたちが当然のように使っていた論法を、ラビ以上に正確に、ラビ以上に深く使った。そして、彼らが頭では知っていながら心では忘れていた原則——「律法は命を生かすためにある」——を、目の前の病人の手と腰によって、生きた姿で示した。
彼の名前を、ここで明かそう。
その男の名は、イエスといった。
第四部 聖書の心臓部にある一行——「自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」
ここまで来て、最後にお伝えしたい事実がある。
笑われている「律法」——その心臓部に、聖書全体で最も大切な一行が書かれている。
イエスが地上で生きておられた頃、ある律法学者がこう質問した。
「すべての戒めの中で、どれが第一ですか」
イエスは答えられた。第一の戒めは「あなたの神、主を…愛しなさい」(申命記6章5節)。そして、こう続けられた。
「第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい』。これらより大事な戒めは、ほかにありません」(マルコの福音書12章31節)
この「第二の戒め」——イエスが律法全体の中で最も重要だとされたこの一行は、どこから来ているか。
実は、まさに笑われているレビ記19章18節からの引用なのである。
「自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい。わたしは主である」
ヘブライ語の原文は、たった3つの単語からなる短い言葉だ。ヴェアハヴター・レレアハ・カモハ——直訳すれば「あなたは愛するであろう、あなたの隣人を、あなた自身のように」。
「自分自身のように」というところが、注目に値する。神は、まずあなた自身を大切にしてよいと言われている。そして同じ重さで、あなたの隣にいる人を愛しなさい、と。自分を蔑ろにしてはいけない。他者を蔑ろにしてもいけない。自分の命と、隣人の命は、同じ重さで尊い。それが、笑われていたレビ記の心臓部にある言葉だった。
さらに、同じレビ記19章34節にはこう書かれている。
「在留異国人を…自分自身のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである」
外国人を、自分自身のように愛せよ。これも、笑われている「律法」の中にある言葉だ。
そして、レビ記のヘブライ語のタイトルはヴァイクラという。意味は「主は呼ばれた」。冒頭の動詞そのままが書名になっている。冷たい掟集ではない。聖なる神が、罪深い人間を呼んで近づけてくださる招待状——それが、レビ記なのである。
結びに
笑った若者を、責めたい訳ではない。むしろ、こう伝えたい。
「あなたが笑ったのは、聖書ではなかった。聖書の周りに人間が積み上げた、誤解の壁の方だった。本物の聖書をひらいてみてほしい。そこには、あなたの命を尊び、あなたの隣人を愛するように語りかける、一人の神の声がある」
2000年前、命のために掟を破ったと言われたあの男——ナザレのイエス——は、こう生きた。律法の心を、自分自身の手と足で取り戻すために。
聖書は、命を尊ぶ本である。
そして、その「命を尊ぶ神」は、今日もあなたに呼びかけておられる。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイの福音書11章28節)
一度、聖書を開いてみてはいかがでしょうか。あなたの命を尊ぶ神の声が、そこに、確かにある。
| 原語 | 発音(カナ) | 意味 |
|---|---|---|
| שַׁבָּת | シャバット | 安息日。語根は「やめる、休む」 |
| מְלָאכָה | メラハー | 仕事、業。ミシュナで安息日に禁じられた39項目を指す |
| סְיָג לַתּוֹרָה | セヤグ・ラ・トーラー | 「律法のための垣根」。聖書本文を守るために人間が周りに巡らせた補強ルール |
| ▼ ピクアハ・ネフェシュ ─ 「命の救済」(2語の組み合わせ) | ||
| פִּקּוּחַ | ピクアハ | 見守る、監督する、救う |
| נֶפֶשׁ | ネフェシュ | 魂、命、息のある生きもの |
| וָחַי בָּהֶם | ヴァハイ・バヘム | 「これによって生きる」(レビ記18:5)。ピクアハ・ネフェシュの聖書的根拠 |
| קַל וָחֹמֶר | カル・ヴァホメル | 「軽きより重きへ」。ラビ的論法の代表例。イエスもしばしば用いられた |
| ▼ ヴェアハヴター・レレアハ・カモハ ─ 「自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」(レビ記19:18、3語の組み合わせ) | ||
| וְאָהַבְתָּ | ヴェアハヴター | あなたは愛するであろう(語根アーハヴ=愛する) |
| לְרֵעֲךָ | レレアハ | あなたの隣人に(語根レーア=友、隣人、仲間) |
| כָּמוֹךָ | カモハ | あなた自身のように |
| וַיִּקְרָא | ヴァイクラ | 「主は呼ばれた」。レビ記のヘブライ語タイトル(冒頭の動詞そのまま) |


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