2026年1月30日 聖書通読  贖いから満たしへ—継承される信仰の本質

聖書通読

出エジプト記13章1節から16節 第二歴代誌32章33章 ルカ11章1節から36節

モーセ五書から新約聖書まで、三つの箇所を貫く神様のメッセージを探る記事です。まず第一部(トーラー)をお読みいただくだけでも豊かな学びが得られます。今日は過越しの箇所があり長文になりました。目次を利用して、必要な時に必要なところを見る事もできます。時間がある時、さらに深く学びたい時は、第二部(旧約の歴史書・預言書)、第三部(新約)へとお進みください。そうすると神様の一貫したご計画が鮮明に見えてきます。

目次

第一部:トーラーポーション(出エジプト記13:1-16)

長子の聖別と「身体で覚える」信仰


出エジプト記13章は、過越の夜の直後に語られた主の命令です。エジプトの長子が打たれた直後、主はイスラエルに「長子の聖別」を命じられます。これは単なる儀式の規定ではなく、贖いの神学の土台となる重要な教えであり、同時に信仰の継承についての深い教えでもあります。


長子は主のもの(1-2節)

「最初に胎を開く長子はみな…わたしのものである」

ヘブライ語で「聖別する」は קָדַשׁ(カダシュ)—「聖なるものとして取り分ける」という意味です。長子が主のものとされる理由は、過越の夜に主がイスラエルの長子を「過ぎ越して」救われたからです。

ここに贖いの原則があります。命が救われた者は、救った方のものとなる。イスラエルの長子は死ぬべきでしたが、小羊の血によって命を保ちました。それゆえ、その命は主のものです。

これは新約の私たちにも当てはまります。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(Ⅰコリント6:20)。キリストの血によって贖われた私たちは、もはや自分自身のものではなく、主のものなのです。


「覚えていなさい」—身体で記憶する信仰(3-9節)

「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい」(3節)

「覚えていなさい」は זָכוֹר(ザコール)。これは単なる「忘れないでいる」という受動的な意味ではなく、積極的に思い起こし、今の生活に適用するという能動的な意味を持ちます。

この箇所で最も印象的なのは、神が身体的な記憶を求めておられることです。

「これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、主のおしえがあなたの口にあるようにしなさい」(9節)

現代の私たちは「記憶」を頭の中のことだと考えがちです。しかし神は、信仰を頭だけでなく身体全体で覚えることを意図されました。

  • → 行動・働き(私たちの手のわざを通して信仰を表す)
  • → 思考・意志(私たちの考えの中心に神を置く)
  • → 告白・継承(「主のおしえがあなたの口にあるように」)

後のユダヤ教では、この命令に基づいてテフィリン(経札)—聖句を入れた小箱を手と額に結びつける—という実践が生まれました。文字通りの実践かどうかは解釈が分かれますが、神の意図は明らかです。信仰は全人格的な応答を求めるのです。

これは後にイエスが「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マタイ22:37)と言われたことの旧約的表現です。

また、種なしパンを7日間食べるという命令も、味覚による記憶です。毎年この味を経験することで、出エジプトの記憶が身体に刻まれていきます。


「定められた時」—神との約束の出会い(10節)

「あなたは、この掟を毎年その定められた時に守らなければならない」

「定められた時」はヘブライ語で לְמוֹעֲדָהּ(レモアダー)—מוֹעֵד(モエド)の派生形です。

モエドは単なる「時間」や「期間」ではありません。神との約束の出会いの時という豊かな意味を持ちます。レビ記23:2で主の祭りは「主の例祭(モアデイ・アドナイ)」と呼ばれていますが、これは「主の約束の時」「主との出会いの時」という意味です。

過越が毎年「モエド」として守られるのは、それが単なる歴史的記念日ではなく、神がご自分の民と出会われる聖なる時だからです。神は特定の時を「聖別」され、その時に民と出会うことを約束されました。

私たちの礼拝もまた「モエド」—神との約束の出会いの時—です。


長子の贖いの規定(11-16節)

約束の地に入った後の規定が語られます。ここで重要な区別が示されます:

  • 清い動物の初子(牛、羊など) → 主にいけにえとして献げる
  • ろばの初子 → 羊で贖う、または首を折る
  • 人間の長子 → 必ず贖う

なぜ「ろば」が特別に言及されるのでしょうか。ろばは律法上「汚れた動物」(ひづめが分かれていない)であり、そのまま神に献げることができません。しかし羊(清い動物)で贖えば、その命は保たれます。贖わないなら「首を折る」—つまり死です。

これは私たち人間の姿そのものです。私たちは霊的に「汚れた者」であり、そのまま神の前に出ることができません。しかし、神の小羊であるキリストによって贖われるのです。ヨハネはイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫びました。


子どもへの継承(14-15節)

「後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋ねるときは、こう言いなさい」

神は、子どもが質問することを前提としておられます。そして親は、その質問に答える準備をしておかなければなりません。

興味深いことに、過越の祭りの式次第(セデル)では、伝統的に子どもが四つの質問をする場面があります。「なぜこの夜は他の夜と違うのですか?」という質問から始まり、親が出エジプトの物語を語ります。これは出エジプト記13章の命令の実践です。

信仰の継承は自動的には起こりません。意図的に語り継ぎ、子どもの質問に備え、物語を生き生きと伝える必要があります。


贖いの神学的構造

出エジプト記13章は、贖いの明確な構造を示しています:

エジプトの長子イスラエルの長子
過越の夜裁きを受けて死ぬ小羊の血によって守られる
贖いなしあり
結果いのち

この構造は、十字架においてさらに深く実現しました。

キリストなしの人間キリストにある人間
状態罪の裁きの下にある小羊の血によって覆われる
贖いなしキリストの血による贖い
結果永遠の死永遠のいのち

パウロはこれを受けて「私たちの過越の小羊キリストは、すでに屠られたのです」(Ⅰコリント5:7)と宣言しました。


今日の適用

出エジプト記13章は、私たちに問いかけます:

  1. 私は「贖われた者」として生きているか? — 自分の命が自分のものではなく、主のものであることを覚えているか。
  2. 信仰を「身体で」覚えているか? — 頭の知識だけでなく、手(行動)、額(思考)、口(告白)で信仰を生きているか。
  3. 次世代に語り継いでいるか? — 子どもや信仰の若い人々が「これはどういうことですか」と尋ねた時、答える準備ができているか。

私たちは過越の小羊キリストによって贖われました。その恵みを「覚え」、身体全体で応答し、次の世代に語り継いでいく—これが贖われた民の生き方です。

第二部:旧約(第二歴代誌32-33章)

信仰の継承と悔い改めの深さ


第二歴代誌32-33章は、ユダ王国の三代の王—ヒゼキヤ、マナセ、アモン—の物語です。信仰深い父から極悪の息子へ、そして劇的な悔い改めから再びの堕落へ。この箇所は、信仰の継承がいかに困難であるかを痛烈に示しています。

出エジプト記13章で主は「息子に告げなさい」と命じられましたが、歴代誌はその継承が失敗する現実を描きます。


ヒゼキヤの信仰—現実的な備えと霊的な信頼(32:1-8)

アッシリアの王センナケリブがユダに侵攻してきた時、ヒゼキヤは二つのことを同時に行いました。

第一に、現実的な備え:

「町の外にある泉の水をふさごうと、高官たちや勇士たちと相談した」(32:3) 「すべての泉と、この地を流れている川をせき止めて言った。『アッシリアの王たちに攻め入らせ、豊富な水を見つけさせてなるものか』」(32:4)

これが有名な**ヒゼキヤトンネル(シロアムトンネル)**の記述です。32:30にさらに詳しく記されています:「上方にあるギホンの水源をふさぎ、ダビデの町の西側に向かってまっすぐに流した」

このトンネルは全長約533メートル。城壁の外にあったギホンの泉から、城壁内のシロアムの池へ水を導く驚異的な土木工事でした。1880年に発見された「シロアム碑文」には、両側から掘り進んで中央で出会った時の興奮が記録されています。

興味深いことに、このトンネルが流れ込むシロアムの池は、後にイエスが盲人を癒された場所です(ヨハネ9章)。ヒゼキヤの信仰による「水」の備えが、数百年後にメシアの癒しの場となったのです。

第二に、霊的な信頼:

「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない…彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる」(32:7-8)

ヒゼキヤは現実的な備え霊的な信頼を両立させた王でした。トンネルを掘り、城壁を強化しながら、同時に「主が私たちの戦いを戦ってくださる」と民を励ました。

これは「信仰があるから何もしなくていい」という姿勢とは対極です。また「自分の力で何とかする」という姿勢とも違います。できる備えをしつつ、究極的には主に信頼する—これがヒゼキヤの信仰でした。


センナケリブの心理戦と主の勝利(32:9-23)

センナケリブは軍事力だけでなく、心理戦を仕掛けました。

「おまえたちは、私と私の先祖たちがすべての国々の民にしてきたことを知らないのか。諸国の神々が彼らの国を私の手から救い出すことができたか」(32:13)

センナケリブの論理は明快です。「他の国々の神々は私に勝てなかった。おまえたちの神も同じだ。」彼はイスラエルの神を他の国々の偶像と同列に置いたのです(32:19)。

しかし、これは致命的な誤りでした。

「ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた。主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた」(32:20-21)

一夜にして185,000人のアッシリア兵が打たれました(列王記下19:35参照)。センナケリブは恥じて帰国し、やがて自分の息子たちに殺されます。

生ける神を侮る者の末路です。


ヒゼキヤの弱さ—恵みの後の高ぶり(32:24-31)

しかし、ヒゼキヤにも弱さがありました。

「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。ところがヒゼキヤは、自分に与えられた恵みに応えようとせず、かえってその心を高ぶらせた」(32:24-25)

主はヒゼキヤの寿命を15年延ばすという驚くべき恵みを与えられました(イザヤ38章参照)。しかしヒゼキヤは、その恵みに感謝して謙遜になるどころか、高ぶってしまったのです。

さらに深刻な出来事が記されています:

「バビロンの首長たちが、この地に示されたしるしについて調べるために彼のもとに使節を遣わしたとき、神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして彼を捨て置かれた」(32:31)

「神は…彼を捨て置かれた」—これは恐ろしい言葉です。神は時に、人の心の真実を明らかにするために、あえて介入されないことがあります。

イザヤ39章によれば、ヒゼキヤはバビロンの使節に宝物庫のすべてを見せてしまいました。イザヤはこれを聞いて、やがてバビロンがこれらすべてを奪い去ると預言しました。

勝利の後、癒しの後、恵みの後—そこに高ぶりの誘惑があります。


マナセ—史上最悪の王(33:1-9)

ヒゼキヤの息子マナセは、父とは正反対の道を歩みました。

「彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行った」(33:2)

マナセの罪のリストは衝撃的です:

  • 父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直した(33:3)
  • バアルのために祭壇を築き、アシェラ像を造った(33:3)
  • 天の万象(占星術的偶像礼拝)を拝んだ(33:3)
  • 主の宮に異教の祭壇を築いた(33:4-5)
  • 自分の子どもたちに火の中を通らせた(幼児犠牲)(33:6)
  • 卜占、まじない、呪術、霊媒、口寄せを行った(33:6)
  • 主の宮に偶像を安置した(33:7)

「マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせた」(33:9)

なぜヒゼキヤの息子がここまで堕落したのでしょうか。聖書は直接的な理由を述べていませんが、32:25のヒゼキヤの「高ぶり」と、32:31の「試み」の時の失敗が、息子への信仰継承に影響したのかもしれません。

信仰深い親から不信仰な子が生まれる—これは聖書の中で繰り返されるパターンです。サムエルの息子たち、ダビデの息子たち、そしてヒゼキヤの息子。信仰は遺伝しないのです。


マナセの悔い改め—苦しみの中からの嘆願(33:10-17)

しかし、物語はここで終わりません。

「主はマナセとその民に語られたが、彼らは耳を傾けなかった。そこで主は、アッシリアの王の配下にある軍の長たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った」(33:10-11)

最悪の王が、最も屈辱的な形で捕らえられました。「鉤で捕らえ」—これは文字通り、鼻や唇に鉤を通して引いていく古代の残虐な慣習です。

「しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った」(33:12-13)

これは聖書の中で最も劇的な悔い改めの一つです。

マナセは自分の子どもを火に投じた人物です。主の宮に偶像を置いた人物です。人間的に見れば「赦されない」レベルの罪です。しかし神は、苦しみの中での真実な嘆願を聞かれました。

ここに驚くべき恵みがあります。どんなに深く堕落しても、真実に悔い改めるなら、神は聞いてくださる

マナセは帰国後、偶像を取り除き、主の祭壇を築き直しました(33:15-16)。彼の悔い改めは本物でした。


アモン—継承されなかった悔い改め(33:21-25)

しかし、マナセの悔い改めは息子アモンに継承されませんでした。

「彼はその父マナセが行ったように、主の目に悪であることを行った。アモンはその父マナセが造ったすべての刻んだ像にいけにえを献げ、これに仕えた。しかし、その父マナセがへりくだったようには、主の前にへりくだらず、かえって、このアモンは罪過を増し加えた」(33:22-23)

ここに痛ましい真実があります。アモンは父マナセの悔い改め前の姿を真似し、悔い改め後の姿を真似しなかった。

なぜでしょうか。おそらくアモンは、マナセが偶像礼拝をしていた時代に育ったのでしょう。マナセの悔い改めは晩年のことであり、アモンの人格形成期にはすでに偶像礼拝の習慣が染みついていたのかもしれません。

アモンはわずか2年で家来に暗殺されました(33:24)。悔い改めのないまま。


三代の王から学ぶこと

信仰の状態継承の結果
ヒゼキヤ信仰深いが、晩年に高ぶり→ 息子マナセは堕落
マナセ極悪だったが、真実に悔い改め→ 息子アモンに継承されず
アモン悔い改めなし→ 暗殺される

この三代の物語は、信仰の継承は自動的には起こらないことを示しています。

  • ヒゼキヤの信仰はマナセに継承されなかった
  • マナセの悔い改めはアモンに継承されなかった

出エジプト記13章の「息子に告げなさい」という命令がいかに重要か、そしていかに困難かが分かります。


今日の適用

第二歴代誌32-33章は、私たちに問いかけます:

  1. 現実的な備えと霊的な信頼を両立しているか? — ヒゼキヤのように、できる備えをしつつ、究極的には主に信頼しているか。
  2. 恵みの後に高ぶっていないか? — 勝利の後、祝福の後、癒しの後こそ、謙遜が試される時です。
  3. 信仰を次世代に継承しているか? — 私たちの信仰は、子どもや霊的な子どもたちに伝わっているか。言葉だけでなく、生き方で示しているか。
  4. どんな状態からでも悔い改めは可能だと信じているか? — マナセの例は、どんなに深い罪からでも、真実な悔い改めによって神に立ち返れることを示しています。

ヒゼキヤの水のトンネルが後にメシアの癒しの場となったように、私たちの信仰の歩みも、予想もしない形で次の世代の祝福となるかもしれません。しかしそのためには、意図的に信仰を語り継ぎ、謙遜を保ち、主との関係を生き生きと保つ必要があるのです。

第三部:新約(ルカ11:1-36)

祈りの継承と聖霊による満たし


ルカ11章は、弟子たちの「祈りを教えてください」という求めから始まります。出エジプト記13章で「息子に告げなさい」と命じられ、第二歴代誌で信仰継承の困難さを見た後、ここで弟子たちは自ら進んで学ぼうとする姿を見せます。

この章は三つの部分から成ります:祈りについての教え(1-13節)、霊的戦いについての教え(14-26節)、そして光と闇についての教え(27-36節)。


「祈りを教えてください」—継承を求める弟子たち(1節)

「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」

弟子たちは、イエスの祈る姿を見ていました。そして自分たちも同じように祈りたいと願いました。

これは出エジプト記13章の「これは、どういうことですか」と尋ねる息子の姿と重なります。しかし、ここには重要な違いがあります。出エジプト記では親が語り継ぐ義務が強調されていましたが、ルカ11章では弟子たちが自ら求めているのです。

信仰の継承には二つの側面があります:

  • 語り継ぐ側の忠実さ(出エジプト記13章)
  • 受け取る側の渇き(ルカ11章)

マナセの悔い改めがアモンに継承されなかったのは、アモンに受け取る渇きがなかったからかもしれません。


主の祈り—シンプルで深い祈りの模範(2-4節)

イエスが教えられた祈りは、驚くほどシンプルです。

「父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。」

ルカの記述はマタイ6章より短いですが、祈りの本質的な要素がすべて含まれています:

  1. 「父よ」(アッバ) — 神との親密な関係
  2. 「御名が聖なるものとされますように」 — 神の栄光を第一に
  3. 「御国が来ますように」 — 神の支配を待ち望む
  4. 「日ごとの糧を」 — 日々の必要の信頼
  5. 「罪をお赦しください…私たちも赦します」 — 赦しの連鎖
  6. 「試みにあわせないでください」 — 霊的な守りを求める

注目すべきは、神への賛美と信頼が先にあり、自分の必要は後という順序です。


しつこく求め続ける祈り(5-10節)

イエスは続けて、真夜中に友人の家を訪ねる人のたとえを語られます。

「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう」(8節)

「しつこさ」と訳されているギリシャ語は ναίδεια(アナイデイア) で、「恥知らずなほどの大胆さ」「厚かましさ」という意味です。

これは神が「しつこく頼まないと聞いてくれない」という意味ではありません。むしろ、私たちの側の姿勢について教えています。祈りは一度で終わりではなく、粘り強く、大胆に、あきらめずに求め続けるものです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(9節)

ギリシャ語の動詞はすべて現在形で、継続的な行為を表しています。「求め続けなさい」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」というニュアンスです。


聖霊を求める祈り(11-13節)

この段落の結論は非常に重要です。

「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」(11-13節)

マタイの並行箇所(7:11)では「良いものを与えてくださいます」ですが、ルカは明確に**「聖霊を」**と記しています。

これは意図的な違いです。ルカは使徒の働きも書いた人物であり、聖霊の働きを強調しています。ルカにとって、神が与えてくださる「最高の良いもの」とは聖霊ご自身なのです。

ここで出エジプト記13章との繋がりが見えてきます:

  • 出エジプト記:小羊の血による贖い(過去の救い)
  • ルカ11章:聖霊の満たしを求める(現在の歩み)

私たちは贖われた者として、聖霊の満たしを日々求めて生きるのです。


異言と聖霊のバプテスマについて

「異言と聖霊のバプテスマの関係」について、ここで少し整理しておきます。

使徒の働きで異言を伴う聖霊降臨の記録:

  • 2章(ペンテコステ)— 異言あり
  • 10章(コルネリオの家)— 異言あり
  • 19章(エペソの弟子たち)— 異言あり

しかし、8章(サマリア)と9章(パウロ)では、異言の明確な記述がありません。

また、Ⅰコリント12:30でパウロは「みなが異言を語るわけではない」と明言しています。

聖霊の満たしの「証拠」が必ず異言であるという教理は、聖書全体から導き出すには根拠が弱いと思われます。「実」で判断するのが聖書的です。異言を語っても愛がなければ「やかましいどら」(Ⅰコリント13:1)であり、御霊の実(ガラテヤ5:22-23)こそが聖霊の働きの真の証拠です。

同時に、異言の賜物を否定するのも行き過ぎです。パウロは「異言を語ることを禁じてはいけません」(Ⅰコリント14:39)と言っています。

大切なのは、聖霊ご自身を求めることです。賜物は聖霊が主権的に分け与えてくださるものです(Ⅰコリント12:11)。


聖霊の業を悪霊の業と言う罪(14-23節)

イエスが悪霊を追い出されると、ある者たちは「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました(15節)。

「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(20節)

「神の指」という表現は、出エジプト記8:19を思い起こさせます。エジプトの魔術師たちがモーセの奇跡を再現できなくなった時、「これは神の指です」と告白しました。イエスは、ご自分の働きがモーセを通して働かれた同じ神の力であることを示しておられます。

聖霊の業を悪霊の業と断定することは非常に深刻な罪です(マタイ12:31-32参照)。ただし、これは「間違った発言をした」ことではなく、明らかに神の御業と知りながら、それを意図的に悪魔の業と断定し、悔い改めを拒否し続ける状態を指します。

「自分はこの罪を犯したのではないか」と心配する人は、まさにその心配自体が、まだ聖霊に対して心が開かれている証拠です。本当にこの罪を犯した人は、心配すらしません。


空っぽの家の危険(24-26節)

「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです」

このたとえは、しばしば見過ごされますが、非常に重要です。

ポイントは**「空っぽの家」です。悪霊が出て行っても、家が「掃除されてきちんと片付いている」だけで空っぽ**のままなら、もっと悪い状態になります。

これは単なる「悪霊論」ではなく、霊的な空白の危険を教えています:

  • 悪い習慣をやめただけでは不十分
  • 罪から離れただけでは不十分
  • 何で満たすかが重要

だからこそ、直前で「聖霊を求めなさい」と言われているのです。空っぽではなく、聖霊で満たされることが必要です。

マナセの息子アモンは、父の偶像礼拝をやめる姿は見たかもしれませんが、何で満たされるべきかを学ばなかったのかもしれません。


神のことばを聞いて守る者の幸い(27-28節)

「イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から、ある女が声をあげてイエスに言った。『あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。』しかし、イエスは言われた。『幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです』」

この女性はイエスの母マリアを称賛しました。しかしイエスは、血縁関係や肉体的なつながりよりも、神のことばを聞いて守ることの方が重要だと言われました。

これは出エジプト記13章の「息子に告げなさい」と響き合います。信仰の継承において重要なのは、単に「聞く」ことではなく、**「聞いて守る」**ことです。アモンはおそらく父マナセの悔い改めを「聞いた」でしょう。しかし「守らなかった」のです。


ヨナのしるし—三日目の復活(29-32節)

「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです」

「ヨナのしるし」とは三日目の復活です。マタイ12:40でイエスご自身が解説されています:「ヨナが三日三晩、大きな魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいる」

興味深いのは、イエスがここでニネベの人々の悔い改めに言及されていることです(32節)。ヨナは嫌々ながら宣教しましたが、異邦人のニネベは悔い改めました。マナセも異邦人のような罪を犯しましたが、悔い改めました。しかしアモンは悔い改めなかった。

「ここにヨナにまさるものがあります」—イエスはヨナより偉大な方です。その方の招きに応答しない者は、ニネベの人々よりも重い裁きを受けます。


光と闇—内なる目を健やかに保つ(33-36節)

「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい」(34-35節)

「目」は霊的な知覚力、心の焦点を象徴しています。何を見つめているか、何に心を向けているかが、全人格を左右します。

「健やかな目」のギリシャ語 πλος(ハプルース) は「単純な」「純粋な」「一途な」という意味も持ちます。つまり、神に対して一途な心を持つ者は、全身が光に満ちるのです。

ヒゼキヤは勝利と癒しの後、心の「目」が自分の栄光に向いてしまいました。マナセは長年、心の「目」が偶像に向いていましたが、苦しみの中で神に向き直りました。

「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります」(36節)

聖霊に満たされ、神のことばを聞いて守り、心の目を神に向け続ける者は、全身が光に満ちるのです。


今日の適用

ルカ11章は、私たちに問いかけます:

  1. 祈りを学ぶ渇きがあるか? — 弟子たちのように「教えてください」と求めているか。信仰の継承は、受け取る側の渇きも必要です。
  2. 聖霊ご自身を求めているか? — 賜物や体験ではなく、聖霊ご自身を求め続けているか。天の父は、求める者に聖霊を与えてくださいます。
  3. 心は何で満たされているか? — 罪から離れただけでなく、聖霊で満たされているか。空っぽの家は危険です。
  4. 神のことばを聞いて「守って」いるか? — 聞くだけでなく、実践しているか。継承されるべきは「聞いて守る」信仰です。
  5. 心の目は何に向いているか? — 神に対して一途な心を保っているか。内なる光が闇にならないように気をつけているか。

第四部:全体の一貫性

贖いから満たしへ—継承される信仰の本質


今日の三つの箇所を貫く一つの問いがあります。**「救われた者は、どのようにその信仰を生き、次世代に継承していくのか」**という問いです。


一本の線でつながる三つの箇所

出エジプト記13章では、神が継承の命令を与えられました。「息子に告げなさい」—贖われた民には、語り継ぐ責任があります。

第二歴代誌32-33章では、その継承が失敗する現実が描かれます。ヒゼキヤからマナセへ、マナセからアモンへ。信仰深い父から不信仰な息子が生まれ、悔い改めた父の姿を息子は真似しませんでした。

ルカ11章では、継承が成功するための鍵が示されます。弟子たちは「教えてください」と自ら求めました。そしてイエスは、求める者に聖霊が与えられると約束されました。

三つの箇所は、一つの流れを形成しています:

贖い(過越の小羊)継承の試み(語り継ぎ)聖霊による満たし(内側からの変革)


なぜ継承は失敗するのか

アモンがマナセの悔い改めを継承しなかった理由について、聖書は直接語っていません。しかし、ルカ11章の「空っぽの家」のたとえがヒントを与えてくれます。

マナセは偶像を取り除きました。しかしアモンは、何で満たされるべきかを学ばなかったようです。「掃除されてきちんと片付いている」だけでは不十分なのです。

出エジプト記13章の「手のしるし、額の記念」は、信仰を身体全体で覚える仕組みでした。頭の知識だけでなく、行動(手)、思考(額)、告白(口)のすべてで。ルカ11章の「聞いて守る」も同じことを指しています。

継承されるのは、知識ではなく生き方です。語り継ぐ側の忠実さと、受け取る側の渇き。その両方が揃った時、信仰は次世代に伝わります。


贖いと満たしの関係

出エジプト記13章の小羊の血による贖いと、ルカ11章の聖霊の満たしは、切り離せない関係にあります。

贖いは出発点です。私たちは自分の力で救われたのではなく、神の小羊キリストの血によって贖われました。

しかし、贖われただけでは「空っぽの家」です。聖霊に満たされて初めて、信仰は生きたものとなり、次世代に継承される力を持ちます。

イエスが「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と約束されたのは、この文脈で理解すべきです。贖われた者が、聖霊を求め続けること。それが「血による救いと御霊による満たし」に生きる者の姿です。


今日の箇所が私たちに問いかけること

三つの箇所は、一つの問いを私たちに投げかけています。

私たちは、贖われた恵みを「覚え」、聖霊に「満たされ」、次世代に「語り継いで」いるだろうか。

ヒゼキヤのように信仰深くても、恵みの後に高ぶる危険があります。マナセのように堕落しても、真実に悔い改めれば赦されます。しかしアモンのように、悔い改めの機会がありながらそれを拒むなら、継承の鎖は断ち切られます。

弟子たちの「教えてください」という渇き。これこそが、継承を受け取る側に必要な姿勢です。そして聖霊は、そのように求める者に与えられるのです。


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