聖書通読 第329回
通読箇所:申命記31章14節〜30節、ホセア書9章〜10章、ペテロの第一の手紙5章
神の御顔が見えないと感じる時、神はどこにおられるのでしょうか。失敗すると分かっている民を、なぜ神は約束の地へ連れて行かれたのでしょうか。
今回は、申命記・ホセア書・ペテロの手紙を通して、その答えを探していきます。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
今日の一曲はこちらです 👇
今日の一曲「大牧者」

第一部 トーラー 申命記31章14節から30節
失敗を知ったうえで渡された歌
モーセの旅は、もうすぐ終わろうとしています。四十年のあいだ民を導いてきたモーセに、神はこう言われました。
“主はまたモーセに言われた、「あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを召して共に会見の幕屋に立ちなさい。わたしは彼に務を命じるであろう」。”(申命記31章14節)
会見の幕屋(かいけんのまくや)*に、雲の柱が現れます。いよいよ、モーセからヨシュアへの引き継ぎです。ところが、神が最初に語られたのは、励ましの言葉ではありませんでした。
神は、民の失敗を知っていた
神は、モーセが死んだ後のことを予告されます。民はほかの神々を慕い、「わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう」。約束の地に入る前から、神は民が背くことを知っておられたのです。
“しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行うゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。”(申命記31章18節)
「顔を隠す」は、ヘブライ語で「ヘステル・パニーム」と呼ばれる言葉です。「パニーム」は「顔」という意味です。聖書では、神の顔が向けられることは、神の恵みや、神が親しく共にいてくださること(臨在*)を表します。ここで神が顔を隠されるのは、民の背きに対する裁きとしてです。祝福も守りも、感じられなくなるのです。
18節の原文では、「隠す」という言葉が二度重ねられています。日本語の「必ず」は、この強調を訳したものです。
民は苦しみの中で、「われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか」と言うようになります(17節)。けれども、神という存在が消えてしまったわけではありません。
ここで興味深い点があります。ユダヤ教のラビ(教師)*たちの教えをまとめたタルムード*には、この「隠す」という言葉を、エステル記と結びつける読み方があります(フリン139b)。「隠す」と「エステル」の音が似ているからです。エステル記は、神の名前が一度も出てこない書です。それでも神は、見えないところで民を守り続けました。顔を隠されている時も、神はそこにおられる。そう読まれてきたのです。
顔を向けておられる時/顔を隠される時の対比表
図解① 顔を向けておられる時/顔を隠される時
申命記31章17〜18節
| 顔を向けておられる時 | 顔を隠される時 | |
|---|---|---|
| 神の存在 | おられる | おられる(見えなくても、そこにおられる) |
| 親しい交わり・恵み | 感じられる | 失われる |
| なぜそうなるのか | 契約に生きる民に、顔を向けてくださる | 民の背きに対する裁き(17〜18節) |
| 民の言葉 | ― | 「われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか」(17節) |
| 回復の道 | ― | もう一度、御顔をたずね求める(詩篇27篇8節) |
この図解に出てくる言葉
הַסְתֵּר אַסְתִּיר ハステル・アスティール=必ず隠す
הֶסְתֵּר פָּנִים ヘステル・パニーム=顔を隠すこと
※ユダヤ教のタルムード(フリン139b)は、この「隠す」をエステル記と結びつけて読みます。エステル記には神の名前が一度も出てきませんが、神は見えないところで民を守り続けました。
なぜ「歌」なのか
神はモーセに、律法の書とは別に、もう一つのものを命じました。
“それであなたがたは今、この歌を書きしるし、イスラエルの人々に教えてその口に唱えさせ、この歌をイスラエルの人々に対するわたしのあかしとならせなさい。”(申命記31章19節)
なぜ歌なのでしょうか。神はその理由を、「それはこの歌が彼らの子孫の口にあって、彼らはそれを忘れないからである」と言われます(21節)。
難しい教えは忘れても、子どものころに歌った歌は、大人になっても口から出てきます。何百年も後、民が苦しみの中にいる時、この歌がよみがえります。そして「神は前から言っておられた」と気づかせるのです。歌は、神が民を見捨てていない証拠(あかし)として残されたのです。
知っていても、連れて行く
21節には、もう一つ大切な言葉があります。
“わたしが誓った地に彼らを導き入れる前、すでに彼らが思いはかっている事をわたしは知っているからである」。”(申命記31章21節)
神は、民の心の中まで知っておられました。それでも約束を取り消さず、民を約束の地へ導き入れられました。そしてヨシュアに、「強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」と言われたのです(23節)。
失敗すると分かっていても、見捨てない。背く民には顔を隠すと告げながら、その民を導くヨシュアには、「わたしはあなたと共にいるであろう」と約束される。ここに、神の愛の不思議があります。
モーセ自身は、約束の地に入ることなく眠りにつきます。16節で神は、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり」と言われました。文法上の主語は「この民」で、本来の意味は「民がたちあがる」です。けれどもヘブライ語の原文では、「先祖たちと一緒に眠る」のすぐ後に、「たちあがる」(ヴェカム)という言葉が続きます。そのためタルムードには、ここを「あなたは先祖と共に眠り、そして起き上がる」と読み、モーセ五書の中に復活の希望を見いだす議論があります(サンヘドリン90b)。言葉の一つ一つに希望を探してきたユダヤ人の姿勢が、ここに表れています。
死で終わらない希望。それは第三部で、もっとはっきり見えてきます。
ぜひ、ご自分の聖書で申命記31章をもう一度開いてみてください。厳しい予告の言葉の奥に、民を手放さない神の思いが見えてくるはずです。
*この部に出てきた言葉
*会見の幕屋(かいけんのまくや):荒野の旅の間、神がモーセと会って語られた天幕。
*臨在(りんざい):神がそこにおられて、共にいてくださること。
*ラビ:ユダヤ教の聖書の教師。「わたしの先生」という意味の言葉から来ている。
*タルムード:ユダヤ教のラビたちの議論や教えをまとめた、とても大きな書物。
第二部 旧約 ホセア書9章・10章
荒野のぶどう
第一部で、神はモーセに予告されました。民は約束の地で「食べて飽き、肥え太るに及んで、ほかの神々に帰し」てしまう、と(申命記31章20節)。その予告から何百年もたったころ、本当にそのとおりのことが起きました。それを語ったのが、預言者ホセアです。
ホセアは、紀元前8世紀に北イスラエル王国で語った預言者です。ホセア書では、北イスラエルはしばしば「エフライム」*と呼ばれます。このころの北王国は、とても豊かでした。
豊かになるほど、祭壇が増えた
“イスラエルは実を結ぶ茂った
ぶどうの木である。
その実を多く結ぶにしたがって、
祭壇を増し、
その地の豊かなるにしたがって、
柱の像を麗しくした。”(ホセア書10章1節)
実りが増えるたびに、民は偶像の祭壇を増やしました。豊かさをくださったのは神なのに、民はその感謝をバアル*にささげたのです。
祭りの日に、何をするのか
“あなたがたは祝の日と、主の祭の日に、
何をしようとするのか。”(ホセア書9章5節)
9章の前半には、穀物の打ち場や酒ぶねが出てきます。律法には、次のように定められていました。
“打ち場と、酒ぶねから取入れをしたとき、七日のあいだ仮庵の祭を行わなければならない。”(申命記16章13節)
打ち場と酒ぶねは、仮庵の祭り*の時期を表す組み合わせだったのです。そのため、この「主の祭の日」は、仮庵の祭りが背景だと考えられています。
申命記31章10節から13節で、モーセは仮庵の祭りの時に、律法を民に読み聞かせるよう命じていました。本来は、神の言葉を聞く祭りだったのです。ところがホセアの時代には、同じ祭りが偶像に感謝する日になってしまいました。
神の初恋の記憶
裁きの言葉が続く中に、突然、こんな一節が置かれています。
“わたしはイスラエルを荒野のぶどうのように見、
あなたがたの先祖たちを、
いちじくの木の初めに結んだ初なりのように見た。
ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、
身をバアルにゆだね、
彼らが愛した物と同じように憎むべき者となった。”(ホセア書9章10節)
何もない荒野を旅していて、思いがけずぶどうを見つけたら、どれほどうれしいでしょうか。いちじくの初なりは、その年いちばん最初の、特別な実です。神がイスラエルを見つけた時の喜びは、それと同じだったと言うのです。
ホセア書は、神とイスラエルの関係を、夫と妻にたとえて語る書です。神がイスラエルを見いだした時の喜びを、初恋の記憶にたとえて読むことができます。裏切られてもなお忘れられない思いが、この一節からにじんできます。
神の家が、むなしさの家に
10章5節に「ベテアベンの子牛」という言葉が出てきます。これは、北王国が金の子牛を置いた町「ベテル」のことです。
北王国の最初の王ヤラベアム*は、民がエルサレムの神殿へ巡礼に行かないように、ベテルとダンに金の子牛を置きました。そして、「ユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め」、ベテルの子牛に犠牲をささげました(列王紀上12章32節)。律法では、「その七月の十五日は仮庵の祭である」と定められています(レビ記23章34節)。ヤラベアムは、それを一か月ずらしたのです。聖書はこの八月を、「彼が自分で勝手に考えついた月」と呼んでいます(33節)。
つまり北王国では、仮庵の祭りがベテルの子牛の前で祝われていました。9章の「祭の日」と10章の「ベテアベン」は、ここで一つにつながります。
ベテルは「神の家」という意味です。ホセアはそれをわざと「ベテアベン」、つまり「むなしさの家」と呼び替えました。神の家が、偶像の家になってしまったことへの、痛烈な皮肉です。
今は主を求むべき時
それでも神は、民に呼びかけることをやめませんでした。
“あなたがたは自分のために正義をまき、
いつくしみの実を刈り取り、
あなたがたの新田を耕せ。
今は主を求むべき時である。
主は来て救いを雨のように、
あなたがたに降りそそがれる。”(ホセア書10章12節)
「正義」はヘブライ語で「ツェダカー」、「いつくしみ」は「ヘセド」です。ヘセドは、契約にもとづく、決して変わらない愛を表す言葉です。正義をまくと、ヘセドが実る。まいた物よりも大きな実が返ってくるのが、神の恵みです。
さらに、「雨のように降りそそがれる」の「ヨレー」という言葉には、同じ形で「教える」という意味もあります。律法を表す「トーラー」も、「教える」の仲間の言葉です。古いラテン語訳(ウルガタ*)は、この節を「義を教える方が来る」という意味に訳しました。死海文書*を残した共同体の指導者は、「義の教師」(モーレー・ツェデク)と呼ばれていました。この呼び名を、ホセア書10章12節やヨエル書2章23節と結びつけて考える学者もいます。
ホセア10章12節「種まき→刈り取り→雨」の流れ図
図解② 正義をまき、いつくしみを刈り取る
ホセア書10章12節と13節をくらべて
理由:自分の戦車と、勇士の多いことを頼んだため(13節)
※「ヨレー」には、同じ形で「教える」という意味もあります。古いラテン語訳(ウルガタ)は、この節を「義を教える方が来る」という意味に訳しました。
固くなった新田を耕すように、心を耕し直す。そして、主を求める。神は、雨を降らせる準備をして待っておられるのです。
ぜひ、ご自分の聖書でホセア書9章と10章を開いてみてください。厳しい裁きの言葉の中に、何度も「帰っておいで」と呼ぶ神の声が聞こえてくるはずです。
*この部に出てきた言葉
*エフライム:ヨセフの子の名前で、北イスラエルでいちばん大きな部族。ホセア書では、北イスラエル王国全体を指して使われる。
*バアル:カナンの人々が拝んでいた、雨と豊作の神。
*仮庵の祭り(かりいおのまつり):秋の収穫を祝う祭り。荒野で仮の小屋に住んだことを記念する。
*ウルガタ:4世紀の終わりごろにヒエロニムスが訳した、ラテン語の聖書。長く西方の教会で使われた。
*死海文書(しかいもんじょ):1947年から死海の近くの洞窟で見つかった、古い聖書の写本などの文書。
*ヤラベアム:ソロモンの死後、王国が南北に分かれた時の、北イスラエル王国の最初の王。
第三部 新約 ペテロの第一の手紙5章
大牧者
この手紙を書いたペテロは、イエス様の十二弟子のひとりです。イエス様が捕らえられた夜、ペテロは三度もイエス様を知らないと言ってしまいました。けれども復活したイエス様は、ペテロに三度「わたしを愛するか」と問いかけ、「わたしの羊を養いなさい」と言われました(ヨハネによる福音書21章17節)。
そのペテロが、各地に散らされて暮らす信徒たちに向けて書いたのが、この手紙です。
“そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。”(ペテロの第一の手紙5章1節)
ペテロは使徒でありながら、自分を「長老のひとり」と呼んでいます。そして長老たち*に、「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい」と勧めます(2節)。かつてイエス様から託された言葉を、今度はペテロが次の人たちに手渡しているのです。
二つの「大牧者」
“そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。”(ペテロの第一の手紙5章4節)
「大牧者」は、ギリシャ語で「アルキポイメーン」です。「アルキ」は「かしら」、「ポイメーン」は「羊飼い」という意味です。つまり「羊飼いたちのかしら」です。長老たちも、群れを世話する小さな羊飼いです。その上に立つ本当の羊飼いが、イエス様なのです。
実は、ヘブル人への手紙13章20節にも「大牧者」が出てきます。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神」。日本語は同じですが、こちらのギリシャ語は「ポイメーン・メガス」、つまり「偉大な羊飼い」です。
旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳*)のイザヤ書63章11節には、神が羊の牧者モーセを海から引き上げた、と語る箇所があります。ヘブル書の言葉は、これと重ねて読まれることがあります。モーセは、約束の地に入る前に死にました。けれども、もっと偉大な羊飼いは、死の中から引き上げられたのです。第一部で見た「死で終わらない希望」が、ここで現実になります。
昔から、三つの羊飼いの呼び名を並べて読むことがあります。羊のために命を捨てる良い羊飼い(ヨハネによる福音書10章11節)は十字架を、死から引き上げられた偉大な羊飼いは復活を、やがて現れる羊飼いのかしらは再臨*を表している、という読み方です。
三つの羊飼い(良い・偉大な・かしら=十字架・復活・再臨)
図解③ 三つの羊飼い
キリストの働きを整理する、昔からの読み方の一つ
ἀρχι- アルキ=かしら+ποιμήν ポイメーン=羊飼い
※聖書がこの三つを一組にして語っているわけではありません。三つの箇所を並べて、キリストの働きを整理する読み方です。
謙遜を腰に結ぶ
ペテロは若い人たちに、「みな互に謙遜を身につけなさい」と書きます(5節)。この「身につける」は、ギリシャ語で「エンコンボーサスセ」という珍しい言葉です。しもべが仕事の前に、前掛けを腰に結びつける様子を表します。
最後の晩餐の夜、イエス様は「手ぬぐいをとって腰に巻き」、弟子たちの足を洗われました(ヨハネによる福音書13章4節)。その時、「わたしの足を決して洗わないで下さい」と言ったのがペテロでした(8節)。この言葉を書きながら、ペテロはあの夜のことを思い出していたのかもしれません。
思いわずらいを投げかける
“神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。”(ペテロの第一の手紙5章7節)
「ゆだねる」は、ギリシャ語で「エピリプサンテス」です。「上に投げる」という意味の、とても力強い言葉です。そっと預けるというより、重い荷物を放り投げるように、神の上に投げかけてよいのです。
詩篇55篇22節には、「あなたの荷を主にゆだねよ」とあります。七十人訳のこの節にも、同じ「投げる」という動詞が使われています。さらに「荷」と訳された言葉も、ペテロの「思いわずらい」と同じ「メリムナ」です。ペテロは、この詩篇を心に置いていたのでしょう。
第一部で、神は「わたしの顔を隠す」と言われました。けれどもペテロは、「神はあなたがたをかえりみていて下さる」と書きます。この「かえりみる」は、「心にかける」という意味の言葉です。神は、私たちから目を離してはおられないのです。
ぜひ、ご自分の聖書でペテロの第一の手紙5章を開いてみてください。三度つまずいたペテロが書いたと思って読むと、一つ一つの言葉が、あたたかく響いてくるはずです。
*この部に出てきた言葉
*長老(ちょうろう):教会で、信徒の世話と指導をまかされた人たち。
*七十人訳(しちじゅうにんやく):紀元前3世紀ごろから訳された、旧約聖書のギリシャ語訳。新約聖書の時代、広く読まれていた。
*再臨(さいりん):イエス様が、もう一度この世に来られること。
第四部 全体の一貫性
ただあなたが欲しい
今回の三つの箇所を、一本の線でつないでみましょう。
申命記31章で、神は民が背くことを予告されました。ホセア書では、その予告が現実になりました。そしてペテロの手紙では、散らされた信徒たちに、神がかえりみてくださると語られます。予告、成就、そして回復。三つの箇所は、一つの物語を語っています。
さすらい人から、バビロンの教会へ
ホセアは、背いた民が「もろもろの国民のうちに、/さすらい人となる」と言いました(ホセア書9章17節。/は原文の改行の位置です)。実際に北イスラエルはアッスリヤに滅ぼされ、民は散らされました。
ペテロは手紙の最後に、「バビロンにある教会」からよろしく、と書いています(ペテロの第一の手紙5章13節)。このバビロンは、ローマを指す呼び名だと考えられています。神の民は、いつの時代も、異国の地で信仰を守ってきました。けれども、もうさすらい人ではありません。大牧者が、群れを見守っておられるからです。
ねたむほどの愛
申命記31章16節で、神は民の背きを「姦淫を行い」と表現されました。ホセア書も、神とイスラエルを夫と妻にたとえます。神と民の関係は、主人と家来のようなものではありません。夫婦のような、愛の関係なのです。
だから神は、民がほかの神々に心を移すと、深く悲しまれます。聖書は神を「ねたむ神」と呼びます(出エジプト記20章5節)。それは、愛する者を誰にも渡したくないという、一途な愛を表す言葉です。そこには、偶像に仕えることを許さない、聖なる求めも含まれています。顔を隠すほどの怒りも、その愛の裏返しなのです。
「捨てて」の奥にあるもの
イエス様も、弟子になる人に厳しい言葉を語られました。
“「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。”(ルカによる福音書14章26節)
ここで「捨てて」と訳された言葉は、ギリシャ語では「ミセイ」、直訳すると「憎む」という強い言葉です。けれども、家族を嫌いなさいという意味ではありません。イエス様が話されたユダヤの言葉には、「AよりもBをずっと愛する」ことを、「Aを憎む」と表す言い方がありました。口語訳は、その意味をくんで「捨てて」と訳しています。
イエス様の厳しさの奥にあるのは、「何よりも、わたしを一番にしてほしい」という招きです。もっと言えば、ただあなたが欲しい、という思いなのです。
強いからではなく、ただ愛したから
では、なぜ神は、すぐに背いてしまう民を選ばれたのでしょうか。
“主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。”(申命記7章7節)
民が強かったからでも、立派だったからでもありません。続く8節は、「ただ主があなたがたを愛し」と語ります。ただ、愛したから。それだけが理由でした。
ペテロもそうでした。三度もイエス様を知らないと言った、弱い人でした。それでもイエス様は、ペテロを選び、羊を託されました。失敗を知っていても、手放さない。第一部で見た神の姿が、ここにも表れています。
三箇所をつなぐ流れ図(予告→成就→回復)
図解④ 予告・成就・回復
今回の三つの箇所を、一本の線でつなぐ
- 民が背くことを予告
- 「わたしの顔を隠す」
- 忘れないための歌(あかし)
- ヨシュアに「共にいる」と約束
- 豊かになるほど祭壇が増えた
- 神の家(ベテル)がむなしさの家(ベテアベン)に
- 「さすらい人となる」
- 大牧者が群れを見守る
- 「神はあなたがたをかえりみていて下さる」
- 思いわずらいを神に投げかける
今は主を求むべき時
神の御顔が見えないように感じる時が、私たちにもあります。けれども、それは神がいなくなったということではありません。神は、私たちが御顔を求めるのを待っておられるのです。
“あなたは仰せられました、
「わが顔をたずね求めよ」と。
あなたにむかって、わたしの心は言います、
「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。”(詩篇27篇8節)
御顔を求めるとは、もう一度、神と顔と顔を合わせて交わることを求めることです。ホセアは、「今は主を求むべき時である」と呼びかけました(ホセア書10章12節)。その呼びかけは、今日を生きる私たちにも向けられています。
荒野でぶどうを見つけた時のように、神はあなたを見つけて喜んでおられます。神の愛を思う時、そこに一つの思いを感じずにはいられません。ただ、あなたが欲しい。
ぜひ、今回の三つの箇所を、もう一度続けて読んでみてください。予告と成就と回復の向こうに、あなたを求め続ける神の姿が見えてくるはずです。
この記事から生まれた祈りの歌
今回の通読を終えた時、心の中に祈りが湧き上がってきました。御顔を隠す神、帰っておいでと呼び続ける神、荒野でぶどうを見つけたように喜んでくださる神。その祈りを、ゴスペルの歌にしました。
「御顔を慕い求めて」はこちらです 👇
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語彙集
第一部の言葉(ヘブライ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| פָּנִים | パニーム | 顔(神の顔は、恵みや臨在を表すことがある) |
| פָּנַי | パナイ | わたしの顔(パニーム+「わたしの」) |
| הֶסְתֵּר פָּנִים | ヘステル・パニーム | 顔を隠すこと(ユダヤ教の用語) |
| └ הֶסְתֵּר | └ ヘステル | 隠すこと |
| └ פָּנִים | └ パニーム | 顔 |
| הַסְתֵּר אַסְתִּיר | ハステル・アスティール | 必ず隠す(同じ動詞を二度重ねる強調) |
| └ הַסְתֵּר | └ ハステル | 隠すこと(強調のための不定詞) |
| └ אַסְתִּיר | └ アスティール | わたしは隠す |
| אֶסְתֵּר | エステル | エステル(「隠す」と音が似ている名前) |
| שִׁירָה | シーラー | 歌 |
| עֵד | エード | あかし、証人 |
| שֹׁכֵב | ショヘーヴ | 横たわる、眠る(ここでは死を表す言い方) |
| וְקָם | ヴェカム | そして、たちあがる(文法上の主語は「この民」) |
| └ וְ | └ ヴェ | そして(接頭辞) |
| └ קָם | └ カム | たちあがる、起き上がる |
第二部の言葉(ヘブライ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| צְדָקָה | ツェダカー | 正義、義 |
| חֶסֶד | ヘセド | いつくしみ、真実の愛(契約の場面でよく使われる) |
| וְיֹרֶה | ヴェヨレー | そして、雨を降らせる(同じ形で「教える」の意味もある) |
| └ וְ | └ ヴェ | そして(接頭辞) |
| └ יֹרֶה | └ ヨレー | 雨を降らせる(同じ形で「教える」の意味もある) |
| יָרָה | ヤーラー | (語根)投げる、射る、教える |
| תּוֹרָה | トーラー | 教え、律法(ヤーラーと同じ仲間) |
| מוֹרֶה צֶדֶק | モーレー・ツェデク | 義の教師 |
| └ מוֹרֶה | └ モーレー | 教師(ヤーラーと同じ仲間) |
| └ צֶדֶק | └ ツェデク | 義 |
| נִיר | ニール | 新田(耕されずにいた固い土地) |
| בֵּית אֵל | ベイト・エル(ベテル) | 神の家 |
| └ בֵּית | └ ベイト | 家の(「バイト」=家の連語形。スミフートの形) |
| └ אֵל | └ エル | 神 |
| בֵּית אָוֶן | ベイト・アーヴェン(ベテアベン) | むなしさの家、悪の家 |
| └ בֵּית | └ ベイト | 家の(スミフートの形) |
| └ אָוֶן | └ アーヴェン | むなしさ、悪 |
※スミフート:ヘブライ語で、二つの名詞をつなげて「AのB」を表す形。前の語の形が少し変わる。
第三部の言葉(ギリシャ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| ἀρχιποίμην | アルキポイメーン | 大牧者、羊飼いたちのかしら |
| └ ἀρχι- | └ アルキ | かしら、首(接頭辞。大祭司アルキエレウスの「アルキ」と同じ) |
| └ ποιμήν | └ ポイメーン | 羊飼い、牧者 |
| τὸν ποιμένα τῶν προβάτων τὸν μέγαν | トン・ポイメナ・トーン・プロバトーン・トン・メガン | 羊の大牧者(ヘブル13章20節) |
| └ τὸν | └ トン | その(冠詞) |
| └ ποιμένα | └ ポイメナ | 羊飼いを(ポイメーンの形が変わったもの) |
| └ τῶν προβάτων | └ トーン・プロバトーン | 羊たちの |
| └ τὸν | └ トン | その(冠詞) |
| └ μέγαν | └ メガン | 偉大な(メガスの形が変わったもの。「メガ」の語源) |
| ποιμάνατε | ポイマナテ | 牧しなさい(2節) |
| ἐγκομβώσασθε | エンコンボーサスセ | 身につけなさい、腰に結びなさい |
| └ ἐν | └ エン | 中に(接頭辞。次の音につられて「エング」に近い音になる) |
| └ κόμβος | └ コンボス | 結び目 |
| ταπεινοφροσύνη | タペイノフロシュネー | 謙遜 |
| ἐπιρρίψαντες | エピリプサンテス | 投げかけて、ゆだねて |
| └ ἐπί | └ エピ | 上に(接頭辞) |
| └ ῥίπτω | └ リプトー | 投げる |
| μέριμνα | メリムナ | 思いわずらい、心配 |
| μέλει | メレイ | 心にかける、かえりみる |
第四部の言葉(ヘブライ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| קַנָּא | カンナー | ねたむ、熱心な(形容詞。「ねたむ神」の「ねたむ」) |
| בַּקְּשׁוּ פָנָי | バクシュー・ファナイ | わが顔をたずね求めよ(詩篇27篇8節) |
| └ בַּקְּשׁוּ | └ バクシュー | たずね求めよ(複数の人への命令) |
| └ פָנָי | └ ファナイ | わたしの顔(פに点がないので「ファ」と読む。前の語が母音で終わり、続けて読まれるため) |
| בִּקֵּשׁ | ビッケーシュ | たずね求める(辞書の形。本文の命令形「バクシュー」とは形が違う) |
第四部の言葉(ギリシャ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| μισεῖ | ミセイ | 憎む(ルカ14章26節の形。口語訳は「捨てて」と訳す) |
| μισέω | ミセオー | 憎む(基本の形) |
参考:聖書ソフトなど
聖書引用について
本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。

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