守り通した者たち——エデンの務めから永遠の契約へ——
—エデンの務めから永遠の契約へ—
通読箇所:申命記27章11-26節/エゼキエル書48章/ダニエル書1章/ヘブル人への手紙13章
誰も見ていない場所で、あなたは何を守っていますか。
祝福と呪いが宣言される山の上、遠く離れた異国の宮廷、そして聖所の奥。今日読む四つの箇所は、時代も場所もまったく違うのに、「守る」という一つのテーマでつながっています。
※本記事は、著者の聖書通読をもとに、AI(Claude)を調べものと執筆の補助として用いて書いています。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書のつながりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
今日の一曲 「大牧者」(静か版)作詞:友喜 × Claude(AI)
第一部 申命記27章 トーラー——ゲリジム山とエバル山、そして「ひそかに」なされる罪
申命記27章では、ヨルダン川を渡った後に行う儀式が命じられています。十二部族が二つの山に分かれ、ゲリジム山では祝福を、エバル山では呪いを宣言します。レビ人が十二の呪いを声に出して読み上げ、民はそのたびに「アァメン」と答えなければなりませんでした。
十二の呪いを順に読むと、一つの言葉が繰り返されていることに気づきます。「ひそかに」です。偶像を「ひそかに安置する者」(15節)、「ひそかに隣人を撃ち殺す者」(24節)。土地の境を移す罪も、まいないを取って罪なき者を殺す罪も、人目につかない場所で行われやすい罪です。
法廷では立証できないかもしれません。けれども神は見ておられる。それがこの儀式の宣言です。
鍵となる箇所——創世記2章15節
この宣言の重さを受け止めるために、今日の通読全体を貫く箇所を先に読んでおきます。
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。(創世記2章15節)
最初の人アダムに与えられた務めは、二つの動詞で表されています。
一つ目は「耕す」です。ヘブライ語でアーヴァド(עָבַד、「アバド」とも書かれます)といいます。土を耕すという意味のほかに、「仕える」「礼拝する」という意味でも、旧約聖書全体で繰り返し使われる言葉です。
二つ目は「守る」です。ヘブライ語でシャーマル(שָׁמַר)といいます。「見張る」「保つ」「守り通す」という意味があり、門番が持ち場を離れずに見張り続ける姿を思い起こさせる言葉です。
この二つの動詞は、民数記3章7〜8節でレビ人の務めを語るときにも、組み合わせて使われています。口語訳では「その務をし、幕屋の働きをしなければならない」「すべての器をまもり」と訳されていますが、ヘブライ語ではシャーマルとアーヴァドです。そのためアダムは、エデンで庭仕事を任されていただけでなく、礼拝し、見張る者として置かれていたと読まれてきました。
申命記27章そのものも、「わたしが、きょう、あなたがたに命じるすべての戒めを守りなさい」(1節)というモーセの言葉で始まっています。この「守りなさい」も、ヘブライ語ではシャーマルです。
申命記27章の儀式は、この「守る」務めの重さを、民に改めて突きつける場面です。人が見ていない場所で、何を守るのか。この問いが、エゼキエル書、ダニエル書、ヘブル人への手紙へと、形を変えて続いていきます。
ぜひご自分の聖書で申命記27章15〜26節を開き、「ひそかに」という言葉に印をつけながら読んでみてください。
「図解1_創世記2章15節】
創世記 2章15節
アダムに託された、二つの務め
「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」(創世記2章15節 口語訳)
耕す
アバド
עָבַד
土を耕す、働く、という意味の動詞。
同時に「仕える」「礼拝する」という意味でも、旧約聖書全体で繰り返し使われる。
守る
シャーマル
שָׁמַר
見張る、保つ、忠実に守り通す、という意味の動詞。
門番が持ち場を離れずに見張り続ける、そのような姿を思い浮かべさせる。
アダムはエデンの園で、単なる庭仕事を任されていたのではない。「礼拝する者(アバド)」であり、同時に「見張り、守る者(シャーマル)」として置かれていた。この二つの動詞の組み合わせは、後にレビ人・祭司の務め——幕屋で「仕え」、聖所を「守る」——として、そのままイスラエルに引き継がれていく(民数記3章7〜8節)。
図解1:創世記2章15節の二つの務め、アーヴァド(仕える)とシャーマル(守る)と、民数記3章のレビ人の務めとの対応
第二部 旧約 エゼキエル書48章・ダニエル書1章——迷わなかった者たち、ザドクとダニエル
エゼキエル書48章——務めを守り通したザドクの子孫
エゼキエル書48章は、終わりの時に回復される聖地の分配を語る章です。境界線と寸法が延々と続く中に、一か所だけ、数値ではなく人物への評価が挟み込まれています。11節です。
これはイスラエルの人々が迷い出た時、レビびとが迷ったように迷ったことはなく、わが務を守り通したザドクの子孫のうちから、聖別された祭司に属する(48章11節)
同じ評価は44章15節にも記されています。
しかしザドクの子孫であるレビの祭司たち、すなわちイスラエルの人々が、わたしを捨てて迷った時に、わが聖所の務を守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血とをわたしにささげるために、わたしの前に立てと、主なる神は言われる。(44章15節)
ここで「守った」と訳されている言葉が、第一部で見たシャーマルです。
イスラエルの歴史には、民全体が偶像礼拝へ繰り返し迷い込んだ時代がありました。レビ人の中にも、その流れに巻き込まれて主から離れた者たちがいました。しかしザドクの子孫は、聖所の務めを離れませんでした。民全体が眠りこけている間も、目を覚まして持ち場を見張り続ける。それがシャーマルという言葉の生きた意味です。
この忠実さは、エゼキエルの時代より何百年も前に、すでに記録されています。ダビデの晩年、王子アドニヤが王になろうとした時、祭司アビヤタルはアドニヤに従いましたが、祭司ザドクは従いませんでした(列王紀上1章7〜8節)。そしてダビデの命によって、ザドクはソロモンに油を注ぎました(同39節)。
国の行く末が分かれる緊張の中で、ザドクは立場を明確にし、揺らぎませんでした。エゼキエルの預言は、こうして積み重ねられた忠実さを、回復された神殿の秩序の中で認めている場面だと読むことができます。
ダニエル書1章——心に置いたダニエル
同じ「守る」というテーマが、まったく異なる舞台でもう一度繰り返されます。
ダニエル書1章のあらすじはこちらです 👇
バビロンに連れて来られた少年ダニエルたちは、王が与える豪華な食事と酒を勧められました。断れば王への忠誠を疑われかねない、命に関わりかねない状況です。それでも8節にはこうあります。
ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので(1章8節)
「心に思い定めた」は、ヘブライ語を直訳すると「自分の心の上に置いた」という表現です。「守る」(シャーマル)とは別の言葉ですが、周りがどう動くかに関わらず、自分の内側で先に結論を定めてしまう、強い意志を表しています。
周りの若者たちは、当然のように王の食物を口にしていきました。その只中で、ダニエルたち四人だけが違う道を選びました。ザドクの子孫が国全体の背信の中で聖所を守ったように、ダニエルは異教の宮廷で、自分の心を守り抜いたのです。
ただ、ダニエル書1章は、ダニエルの決意だけを語っているのではありません。すぐ後の9節には「神はダニエルをして、宦官の長の前に、恵みとあわれみとを得させられた」とあり、17節には「この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた」とあります。ダニエルが心を守ったその背後で、神がダニエルを守っておられました。
ザドクは祭司という共同体の務めを、ダニエルは一人の心を守りました。規模はまったく違います。けれども、多数が流される時代に少数が持ち場を離れなかったという姿勢は同じです。この構図は、申命記の「ひそかに」なされる罪への警告と、表と裏の関係にあります。
ぜひダニエル書1章を開き、8節と9節を続けて読んでみてください。ダニエルの決意と神の恵みが、並んで書かれていることに気づくと思います。
第三部 新約 ヘブル人への手紙13章——守り抜けない私たちのための、永遠の契約
申命記の呪いの宣言、エゼキエル書とダニエル書の「守り通した」者たち。ここまで読んでくると、ある緊張感が積み重なってきます。務めを守れなかった者は呪われ、守り抜いた者が祝福される。この基準の前に立つとき、自分は本当に守り抜けるだろうかという不安が生まれても、不思議ではありません。
16〜17節——人間の側が果たす務め
16そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。17あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。
16節では善を行うことと施しが命じられ、17節では指導者たちが「あなたがたのたましいのために、目をさましている」と言われています。
ここでの「指導者」は、使徒たちではなく、手紙を受け取った教会をその時に導いていた人たちです。ギリシャ語ではヘーグーメノイといい、「先に立って導いている人たち」という意味があります。
群れのたましいを見張り、その責任を神の前で負う。この姿は、エゼキエル書33章で、神がエゼキエルを「イスラエルの家を見守る者」に立てた場面(33章7節)とよく似ています。ザドクの子孫が担ったシャーマルの務めを、新約の教会の中で担っている人たちだと言えるでしょう。
ここまでは、申命記からザドク、ダニエルへと続いてきた、人間の側が果たす務めの言葉です。けれどもこの手紙は、その先に、まったく違う響きの言葉を置きます。
20〜21節——永遠の契約の血による大牧者
20永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、21イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。
ここで「契約」と訳されている言葉は、ギリシャ語でディアテーケーです。七十人訳では申命記の契約にも使われている言葉ですが、ヘブル人への手紙は9章で、同じ言葉を「遺言」の意味で使っています。
遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。(9章17節)
遺言は、受け取る側が何かを果たしたから与えられるものではありません。遺言を残した人の意志によって、一方的に、取り消されることなく与えられるものです。
申命記27章では、祝福を受けるために律法を守ることが求められました。エゼキエル書では、ザドクの子孫が「守り通した」ゆえに聖所の務めを許されました。どの場面でも、人間の側の「守り」が問われています。
しかしヘブル人への手紙13章の「永遠の契約」は、私たちが完全に守り抜いたから与えられたものではありません。私たちが守り抜けなかったところに、大牧者キリストご自身の血によって打ち立てられた契約です。
「喜ばれる」と「みこころにかなう」
16節の「神は、このようないけにえを喜ばれる」と、21節の「みこころにかなうこと」は、ギリシャ語では同じ言葉の仲間です。どちらも「神に喜ばれる」という意味を持つ、エウアレストスという言葉から来ています。
16節で神が喜ばれると言われていたことを、21節では、神ご自身がイエス・キリストによって私たちの内に行ってくださるように祈られています。命じられた務めを、命じた方が、遺言によって満たしてくださるのです。
牧者たちと、大いなる牧者
「大牧者」は、原文では「羊たちの、その大いなる牧者」という言い方です。17節で群れを見張っていた地上の指導者たちの上に、この大いなる牧者がおられます。
詩篇23篇やヨハネによる福音書10章に描かれる「良い牧者」の姿が、ここでは「死人の中から引き上げられた」という復活の光の中に置かれています。羊のために死に、死を突破して羊のもとに帰ってきた牧者です。
ザドクは務めを守り、ダニエルは心を守りました。けれども私たちは、この大牧者の血による契約によって、すでに守られる側に置かれています。守り抜けたかどうかを問われる前に、契約の中に置かれている。これが、ヘブル人への手紙が結びの祈りに込めた宣言です。
ぜひヘブル人への手紙13章16〜21節を続けて開き、16節の「喜ばれる」と21節の「みこころにかなう」を並べて読んでみてください。
第四部 全体の一貫性——エデンの務めから、門の閉ざされない都へ
今日読んだ四つの箇所を貫いていたのは、「守る」という一つのテーマでした。その出発点にあるのが、シャーマル(見張る、保つ、守り通す)という言葉です。このテーマの旅を、もう一度たどってみましょう。
エデン——最初の召命と、その失敗
すべての始まりは創世記2章15節でした。アダムはエデンの園で、アーヴァド(仕える、礼拝する)とシャーマル(見張る、守る)の務めを与えられました。園に忍び込もうとするものから園を守り、神との交わりの中で仕える者として置かれていたのです。
しかし創世記3章で、アダムは蛇の誘惑の前で神の言葉を守れず、園を追われました。「守る」という最初の召命は、人類の歴史の出発点で破られてしまったのです。
幕屋——受け継がれた務め
けれども、この務めは消えてなくなったわけではありませんでした。その務めは、幕屋という形で民の中に受け継がれていきます。
聖書に、幕屋がエデンと呼ばれている箇所はありません。それでも、幕屋とエデンにはいくつもの共通点があります。
- 入口が東を向いていること。幕屋はうしろが西側と定められていて、入口は東です(出エジプト記26章22節)。エデンでも、神は人を追い出したあと、「エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」(創世記3章24節)とあります。
- ケルビムがいること。幕屋の幕と垂幕には、ケルビムが織り出されていました(出エジプト記26章1節、31節)。エデンの入口を守っていたのもケルビムです。
- 木の形をした燭台。幕屋の燭台は、六つの枝とアーモンドの花の形の飾りを持つ、木のような形に作られました(出エジプト記25章31〜36節)。これはエデンの「命の木」を思わせると読まれてきました。
- 同じ二つの動詞。レビ人の務めを語る民数記3章7〜8節では、エデンと同じアーヴァドとシャーマルが組み合わせて使われています。
創世記3章24節の「守らせられた」も、ヘブライ語ではシャーマルです。アダムが守り切れなかった園への道を、今度はケルビムが守ることになりました。
こうした共通点から、幕屋は「回復されたエデン」とも読まれてきました。アダムに託された召命が、レビ人という形で再び民に与えられたと見ることができます。
ザドクとダニエル——守り通した者たち
エゼキエル書では、その務めを実際に果たした者たちが登場します。イスラエルが偶像礼拝に迷い込んだ歴史の中で、ザドクの子孫は聖所の務めを離れませんでした。
バビロンの宮廷では、ダニエルが王の食物で自分を汚すまいと心に定めました。国の規模で忠実さを示したザドクに対して、ダニエルは異教の只中で、一人の心という小さな範囲で同じ「守る」を生きました。多数が流される時代に、目を覚まして持ち場を離れない。根にある姿勢は同じです。
守り抜けない私たち
けれども、ここで見過ごしてはならないことがあります。ザドクもダニエルも、「守り抜いた人間」として描かれています。私たちが自分の力で同じように守り抜けるかと問われたら、心もとないと感じる人も多いのではないでしょうか。
申命記27章の呪いの宣言は、人は完全には守り抜けないという現実を突きつける儀式でもありました。そしてダニエルの物語でさえ、その忠実さの背後で神が恵みを与えておられたことを記しています。
大牧者と永遠の契約
ヘブル人への手紙13章は、この長い「守る」の物語の終わりに、まったく違う答えを置きます。永遠の契約の血による大牧者イエスです。
この契約は、私たちが守り抜いたことへの報酬ではありません。守り抜けなかった私たちのために、キリストご自身の血によって一方的に打ち立てられた遺言です。そして16節で神が喜ばれるとされた生き方さえ、21節で神ご自身が私たちの内に行ってくださると約束されています。
門の閉ざされない都
この流れの最終地点を、聖書はヨハネの黙示録21章に描いています。新しいエルサレムの門には御使たちがいます(12節)。けれども、
都の門は、終日、閉ざされることはない。(25節)
そして27節にはこうあります。
しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。(27節)
門を閉ざして守る必要のない都です。汚れたものが入り込む可能性そのものが、取り除かれた場所だからです。
エデンで守り切れなかった務めから、ザドクとダニエルが守り通した歴史を経て、門を閉ざす必要のない完成された都へ。これが、今日の四つの箇所が描く一つの大きな物語です。
私たちは今、「守り通せるか」を問われる緊張の中にいるのではありません。すでに大牧者の血による契約の中に置かれています。その平安の中で、なお目を覚まして日々を歩む。それが、今日の通読が私たちに残す問いかけではないでしょうか。
図解2「守る」の旅。エデンから幕屋、ザドクとダニエル、大牧者の契約を経て、門の閉ざされない都へ
「守る」の旅
「守る」というテーマが聖書を貫く道すじ
創世記2章15節・3章
エデン——最初の務め、そして失敗
アダムは園を「耕し(アバド)」「守る(シャーマル)」者として置かれた。しかし蛇の誘惑の前で神の言葉を守れず、園を追われる。
民数記3章7〜8節 レビ人の務め
幕屋——回復されたエデン
エデンで託された「アバド/シャーマル」の召命が、幕屋という場でレビ人・祭司の務めとして再び民に与えられる。
エゼキエル44章15節・48章11節
ザドクの子孫——守り抜いた祭司たち
イスラエルが繰り返し偶像に迷う歴史の中で、ザドクの子孫だけは聖所での務めを離れなかった。共同体規模のシャーマル。
ダニエル書1章8節
ダニエル——心を守り抜いた青年
異教の宮廷という「小さなエデン」で、ダニエルは自分の心を汚すまいと定めた。個人規模の「守る」。
※ここで使われている言葉はシャーマルではなく、「心に置いた」(ワヤーセム)。言葉は違っても、同じ「守る」姿勢。
ヘブル人への手紙13章17・20節
大牧者——もう守り抜く必要のない契約
13章17節では指導者が「たましいのために、目をさましている」。そして永遠の契約の血による大牧者イエス。人の側の「守り」に応じた祝福ではなく、キリストの血による一方的な契約。
黙示録21章25・27節
新しいエルサレム——門の閉ざされない都
「都の門は、終日、閉ざされることはない」。汚れた者は「その中に決してはいれない」。門を閉ざして守る必要のない、完成された聖なる都。
エデンで失われた「守る」務めが、ザドクとダニエルの忠実さを経て、最終的にはキリストの血による契約——そして門を閉ざす必要のない完成された都へと至る。私たちは今、この物語の途上にいる。
今日の通読から生まれた賛美
今日の通読、特にヘブル人への手紙13章20〜21節から、この賛美が生まれました。二つのバージョンがあります。
- ダイナミック版:「主イエスの十字架の血潮によって アーメン」で終わる、確信を宣言する締め。礼拝の高まりの中で。
- 静か版:「あなたにあるように アーメン」で終わる、聴く人への祝福として送り出す締め。
この賛美の「あなた」は、大牧者イエス・キリスト、そして神を指しています。あなたはどちらが心に響きますか。
(ダイナミック版)
実はどちらのバージョンも捨てがたく、なかなか選べずにいました。ところがある晩、何度も聴いているうちに寝落ちしてしまい、曲がつけっぱなしになっていました。それを横で聞いていた主人は、消そうと思ったけれど聴いていたくなり、聴いているうちに心に染み入って涙が出てきたそうです。「僕はこっちが好きだ」と言いました。
言われてみれば、この静かな終わり方には、ダイナミック版とは違う染み入り方があるように思います。
(静かバージョン。心に染み入る版)
「大牧者」
見張り続けた者たちがいた
のろいの声が響く山で
迷わなかった者たちがいた
異国の宴を拒んだ心で
けれど私は知っている
守り抜く力など持たないことを
アダムが手放した楽園の門
今もこの手には閉じられない
死の中から引き上げられた
大牧者よ あなたの血によって
私はすでに契約の中
守られている 守られている
永遠に取り消されることのない
その血によって その血によって
遺言のように、ただ与えられた
私が果たした報いではなく
あなたが果たしてくださった
羊のもとに帰ってきた牧者
問われているのは強さじゃない
問われているのは私の応答
すでにある平安の中で
なお目を覚まして歩むこと
死の中から引き上げられた
大牧者よ あなたの血によって
私はすでに契約の中
守られている 守られている
みこころにかなう者としてくださる
すべての良きものを、備えてくださる
栄光が、世々限りなく
主イエスが流された十字架の血潮によって アァメン
英語バージョン
同じ歌の英語版です。海外のどなたかが、毎日のように聴いてくださっています。
み言葉を暗唱するための賛美
ヘブル人への手紙13章20〜21節(口語訳)のみ言葉を、そのまま暗唱するための賛美も作りました。聞いてくださった方々から「LINEで送ってほしい」と言われたので、今回はここにアップします。
このみ言葉は以前から大好きで、いつも励まされてきました。上の賛美「大牧者」の土台となったみ言葉です。
20永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、21イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。(ヘブル人への手紙13章20〜21節)
語彙表
ヘブライ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味・文法 |
| עָבַד | アーヴァド(アバド) | 働く/仕える/(宗教的文脈で)礼拝する(動詞) |
| שָׁמַר | シャーマル | 守る/見張る/保つ(動詞) |
複合表現(ダニエル書1章8節「心に思い定めた」)
| 原語 | カタカナ発音 | 意味・文法 |
| וַ | ワ | 「そして」(接続詞。物語の過去を表すワイイクトル形の接頭辞) |
| יָּשֶׂם | ヤーセム | 置いた、定めた(動詞スィーム שׂים、Qal・3人称男性単数) |
| דָּנִיֵּאל | ダニエル | ダニエル(固有名詞・主語) |
| עַל | アル | 〜の上に(前置詞) |
| לִבּ | リッブ | 心(レーヴ לֵב が接尾辞と結びついた形) |
| וֹ | オー | 彼の(3人称男性単数の所有接尾辞) |
※全体で「ワヤーセム・ダニエル・アル・リッボー」=「ダニエルは自分の心の上に置いた」→「心に思い定めた」。「守る」(シャーマル)とは別の言葉です。
ギリシャ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味・文法 |
| διαθήκη | ディアテーケー | 契約/遺言(女性名詞) |
| ποιμήν | ポイメーン | 牧者、羊飼い(男性名詞) |
| ἡγέομαι | ヘーゲオマイ | 先に立って導く(動詞) |
| τοῖς ἡγουμένοις | トイス・ヘーグーメノイス | 導いている人たちに(ヘーゲオマイの現在分詞・男性・与格・複数。13章17節。辞書形の複数はヘーグーメノイ) |
| εὐ | エウ | よく、良く(接頭辞) |
| ἀρεστός | アレストス | 喜ばれる、気に入られる(形容詞) |
| εὐαρεστεῖται | エウアレステイタイ | 喜ばれる(動詞エウアレステオー・現在・3人称単数。13章16節) |
| εὐάρεστον | エウアレストン | 喜ばれること、みこころにかなうこと(形容詞エウアレストス・中性・対格・単数。13章21節) |
複合表現(ヘブル人への手紙13章20節「羊の大牧者」)
| 原語 | カタカナ発音 | 意味・文法 |
| τὸν | トン | その(定冠詞・男性・対格・単数) |
| ποιμένα | ポイメナ | 牧者を(男性・対格・単数) |
| τῶν | トーン | その(定冠詞・属格・複数) |
| προβάτων | プロバトーン | 羊たちの(中性・属格・複数) |
| τὸν | トン | その(定冠詞・男性・対格・単数) |
| μέγαν | メガン | 大いなる(形容詞・男性・対格・単数) |
※原文の語順は τὸν ποιμένα τῶν προβάτων τὸν μέγαν。直訳すると「羊たちの、その大いなる牧者を」。τῶν προβάτων(羊たちの)が ποιμένα(牧者を)を修飾しています。
※図解は、著者の通読をもとに、AI(Claude)の補助を用いて作成しています。図中の流れや対応は、聖書の言葉のつながりを示す一つの読み方です。
聖書引用について
本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。


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