通読箇所:ローマ人への手紙 7章
良いことをしたいのに、できない。してはいけないと分かっているのに、してしまう。自分の中に、自分を裏切るもう一人の自分がいる——そんな引き裂かれる感覚を、味わったことはないだろうか。驚くべきことに、聖書の中でこの葛藤を最も赤裸々に書き残したのは、信仰の巨人と呼ばれるあのパウロその人だった。さらに不思議なのは、彼がこの苦しみを、敗北としてではなく、むしろ「いのちの証拠」として語っていることである。死人は、戦わない。戦いがあるということ自体が、一体何を意味しているのか——。
| ※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。 |
| 【読み方のご案内】この記事は、ローマ7章を四つの場面に分けて、ゆっくりと辿っていきます。律法と罪の関係から始まり、内なる葛藤、絶望の叫び、そして救いの宣言へと至る、一つの物語です。お時間のある時に最後まで読み通していただけると、聖書の語る「弱さの中の恵み」が、いっそう鮮やかに見えてくるはずです。 |
尊き泉あり その内より インマヌエルの血ぞ あふれ流る 罪に悩む者 くぐりり入らば 汚れは洗われ 染みは消されん
【図解①「魂の四つの場面」】
第一部 律法は罪なのか——光が照らし出すもの(7章1〜13節)
パウロはこの章を、少し奇妙なたとえ話から始める。夫のある女は、夫が生きている間は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、その律法から解放される——という結婚と死のたとえである(2〜3節)。一見回りくどいが、彼が言いたいことは一つだ。「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」(4節)。私たちはキリストとともに死に、律法という古い夫から解き放たれて、よみがえった新しい方と結ばれた。だから、もう古い契約の下にはいない、と。
ところが、ここで一つの鋭い問いが立ち上がる。「では、律法は罪なのでしょうか」(7節)。律法から解放されたと聞けば、まるで律法そのものが悪者のように響くからだ。これに対してパウロは、強い言葉で否定する。「絶対にそんなことはありません」。むしろ彼はこう告白する。「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかった」と。
ここで彼が具体例として挙げるのが、十戒の「むさぼってはならない」という戒めだ。注目したいのは、十戒には「殺すな」「盗むな」といった目に見える行為への戒めが並ぶ中で、パウロがあえて選んだのが、唯一心の内側に関わる戒めだったことである。
この「むさぼり」と訳された言葉は、もとのギリシャ語でエピテュミアという。「激しく欲する」という意味で、それ自体は良い切望にも使われる中立的な言葉だが、ここでは内側からこみ上げる制御できない渇望を指している。パウロは、手の動きではなく、心の奥の蠢きを問題にしたのだ。律法は、行いの表面だけでなく、心の底まで照らし出す光なのである。
さらに彼は、罪の働き方を生々しく描く。「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」(8節)。この「機会」と訳された言葉、ギリシャ語のアフォルメーは、もともと軍事用語だった。攻撃を仕掛けるための「前線基地」「足がかり」を意味する言葉である。
つまり罪は、律法を逆手に取って攻撃拠点を築く敵将のように描かれている。「してはならない」と言われた途端、かえってそれをしたくなる——あの誰もが知る心の不思議さを、パウロは戦争のイメージで語った。禁じられると、燃え上がる。戒めが来た時に、眠っていた罪が目を覚ましたのだ(9節)。
では律法は、人を死に導く悪いものなのか。違う。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(12節)。律法は罪を生み出すのではなく、罪を暴き出す。光が差し込んだ時、それまで見えなかった部屋のほこりが、無数に舞っているのが見える——あれは、ほこりが増えたのではなく、光が来た証拠である。律法という光が、内側に潜んでいた罪を「極度に罪深いもの」として、はっきりと照らし出した(13節)。
ここに、深い逆説がある。神を本気で求め始めた人ほど、自分の罪深さに苦しむようになる。それは信仰が後退したからではない。むしろ、心の奥に光が届き始めた、確かなしるしなのである。

第二部 死人は戦わない——内なる人の発見(7章14〜22節)
ここから、パウロの筆致は一気に内面へと潜っていく。そして「私は」という一人称が、堰を切ったように溢れ出す。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」(14節)。
この「売られて」という言葉、ギリシャ語でペプラメノスという。これは市場で奴隷として売り渡された状態を表す、非常に強い言葉である。自分の意志ではどうにもならない、所有されてしまった者の姿だ。パウロは、自分の内なる現実をそこまで深刻に見つめている。
そして、あの有名な告白が続く。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(15節)。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(19節)。
ここで何度も繰り返される「したいと思う」という言葉は、ギリシャ語のテローである。「意志する」「願う」という意味だ。注目したいのは、パウロの意志は正しい方を向いているということである。彼は善を願っている。悪を憎んでいる。にもかかわらず、その願いと現実の行いが、致命的にずれてしまう。願う「私」と、行う「私」が、引き裂かれているのだ。
だから彼はこう言う。「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(17節、20節)。これは責任逃れの言い訳ではない。むしろ、自分の中に、自分とは異質な何かが居座っているという、戦慄すべき発見である。自分の家の中に、招いてもいない侵入者が住み着いている——その正体が「罪」だと、彼は突き止めたのだ。
さて、ここで立ち止まって考えたい。この激しい葛藤は、一体「誰の」経験なのだろうか。
ひとつの大切な手がかりがある。死人は、戦わない。罪と完全に一体化し、罪と平和に同居している人の内側には、そもそも葛藤など起きない。善を願う心と、悪を行う現実とがぶつかり合うのは、内側に相容れない二つのものが住み始めたからにほかならない。つまり、この苦しい戦いそのものが、新しいいのちが宿った証拠なのである。戦いがあるということは、すでに死から、いのちへと移されているということだ。
それを決定づけるのが、22節の言葉である。「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる」。
この「内なる人」は、ギリシャ語でエソー・アンスローポスという。そして「喜んでいる」と訳された言葉は、スネードマイである。これは「喜ぶ」を意味するヘードマイに、「共に」を意味するスンが結びついた言葉で、「共に喜ぶ」「心から同意して、一緒に喜ぶ」という意味を持つ。
考えてみてほしい。神の律法を、心の底から「共に喜ぶ」ことのできる人とは、誰だろうか。救われる前の人は、律法を重荷や脅しとして感じることはあっても、それを「共に喜ぶ」ことはできない。律法を喜ぶこの「内なる人」こそ、新しく生まれた者だけが授かるものなのだ。
ここに、もう一つの逆説が隠れている。自分を強く、立派だと思っている人ほど、この葛藤の深刻さに気づきにくい。一方で、自分を弱い者、取るに足らない者だと感じている人ほど、自らの力に早々と絶望し、まっすぐに主へと向かっていく。地の塵のような自分という自覚は、決して呪いではない。それはしばしば、恵みへと至る最も確かな入口となるのである。

第三部 だれがこの私を救い出すのか——みじめな人間の叫び(7章23〜24節)
第二部で見た内なる葛藤は、ここでついに、全面戦争の様相を呈する。「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです」(23節)。
この一節には、実は「律法」という言葉が何度も登場する。少し丁寧に見てみたい。この箇所で「律法」「原理」と訳し分けられている言葉は、もとのギリシャ語ではすべて同じノモスという一語なのである。日本語では文脈に応じて訳し分けられているが、パウロは意図的に、この一語を多重的に響かせている。
整理すると、この章には少なくとも四つの「ノモス」が交錯している。第一に、神が与えた聖なる「神の律法」。第二に、それを喜ぶ「心の律法」。第三に、肉のうちで暴れる「罪の律法」。そして、善を願いながら悪が宿るという、人間に普遍的な「法則(原理)」である。パウロは、神の律法を喜ぶ心と、罪の律法に支配される肉とが、自分という一人の人間の中で戦争状態にあることを、この一語の重なりで描き出したのだ。
【図解②「四つのノモス」】
原語はすべて同じ一語 ── ノモス(νόμος)
しかも、ここで使われている「とりこ」という言葉は、ギリシャ語でアイクマローティゾーといい、これは戦争で敵を捕虜として連行するという意味の軍事用語である。第一部で見た「アフォルメー(前線基地)」から続く、一貫した戦争のイメージだ。罪は前線基地を築き、攻撃を仕掛け、ついには私を捕虜として引きずっていく。内なる人は神の律法を喜んでいるのに、肉はその人を縛り上げて連れ去ってしまう。
この捕虜の鎖の重さに、パウロはついに耐えきれなくなる。そして、聖書全体でも屈指の、魂を絞り出すような叫びが放たれる。「私は、ほんとうにみじめな人間です」(24節)。
この「みじめな」という言葉は、ギリシャ語でタライポーロスという。これは単なる「かわいそう」ではない。長く苦しみに耐え続け、戦い疲れ、心身ともに消耗しきった状態を表す言葉である。傷つき、ボロボロになりながら、なお戦場に立ち続ける兵士の姿。それがこの一語に込められている。立派に勝ち誇る信仰者ではなく、満身創痍で膝をつく一人の人間が、ここにいる。
そして彼は問う。「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。
ここに、見逃してはならない言葉がある。パウロは「どうすれば救われるのか」とは問わなかった。「だれが救い出してくれるのか」と問うたのだ。「どうすれば」と問えば、答えは方法や努力や修行になる。もっと頑張れ、もっと律法を守れ、もっと立派になれ——と。しかしパウロは、その道がすべて行き止まりであることを、この章全体で痛いほど知り尽くしていた。自分の力では、この死のからだから一歩も抜け出せない。だから彼の問いは、方法を求める「どうすれば」ではなく、救い主を求める「だれが」へと、必然的に変わっていったのである。
これは、絶望のどん底から発せられた問いだ。けれども同時に、これは正しい場所に向けられた問いでもある。なぜなら——膝をついて「だれか助けてくれ」と叫ぶその瞬間こそ、人が自分の力を手放し、救い主に手を伸ばす、まさにその瞬間だからである。みじめさの底で発せられたこの「だれが」という問いに、答えはもう、すぐそこまで来ている。
第四部 塵にすぎない私を、高価と呼ぶ方——夜明けの宣言(7章25節)
第三部の最後、パウロは「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのか」と、絶望の底から叫んだ。その叫びの余韻が消えないうちに、次の言葉が放たれる。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(25節)。
問いと答えの、なんという劇的な転換だろうか。「みじめな人間です」というどん底の叫びの、まさにその直後に、感謝の爆発が来る。「だれが」という問いの答えは、努力でも、修行でも、もっと立派になることでもなかった。それは一人の御方——主イエス・キリストだったのだ。
「ただ神に感謝します」と訳された言葉は、ギリシャ語でカリスという。これは「恵み」を意味する名詞そのものである。新改訳は文脈から「感謝します」と訳しているが、原語に忠実に読めば「神に、恵みあれ」に近い。みじめな者を救い出すのは、努力でも修行でもなく、ただ一方的に注がれた恵みだった。そしてこの感謝とは、注がれた恵みが神へと循環して返っていく姿にほかならない。「だれが救い出すのか」という問いの、最も深い答えがここにある——それは「恵み」であり、その恵みの御名を、イエス・キリストという。
そして第三部で叫ばれた「救い出す」という言葉も、ギリシャ語ではルオマイといい、これは激流や敵の手から、力ずくで引き上げて救出するという意味を持つ。溺れる者は、自分で岸に泳ぎ着くのではない。誰かの腕に、掴み上げられるのである。
ところで、この章の結び方には、はっとさせられる正直さがある。救い主の名を呼んで感謝した直後、パウロはこう付け加えるのだ。「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(25節後半)。救われてもなお、心と肉の二重性は、ただちには消えない。戦いは続く。けれども——その戦いは、もはや絶望の戦いではない。なぜなら、勝利者がすでに私の側に立っておられるからだ。
事実、章をまたいだ次の一言で、夜は明ける。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(8章1節)。7章の長く暗い夜は、この8章の輝かしい朝を迎えるためにあった。いちばん暗いのは、夜明け前なのである。
ここで、はじめの問いに戻りたい。あの「みじめな人間です」という叫びは、誰のものだったのか。それは、敗北したクリスチャンの恥ずべき告白ではない。むしろそれは、内に光が差し込み、自分の罪深さに目覚め、自分の無力を知り尽くした者だけが到達できる、深い場所からの叫びである。死人は戦わない。葛藤があるということ自体が、すでにいのちが宿っている確かなしるしなのだ。
そして、この福音の最も麗しいところは、ここにある。救い主が手を伸ばされるのは、立派な者、強い者、誇るべきものを持った者ではない。むしろ、自分を「地の塵に等しい」と感じている者にこそ、その御手は近い。聖書は、人が土の塵から造られたと語る(創世記2章)。詩篇の作者は「主は、私たちのちりにすぎないことを、覚えておられる」と歌った(詩篇103篇14節)。そして神は、その塵のような者に向かって、驚くべき言葉をかけられる。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節)と。
この「尊い」という言葉は、もとのヘブライ語でヤーカルといい、本来は宝石や貴金属の価値を表す言葉である。世の市場では値の付かなかった石ころを、神は手に取り、重さを量り、「これは高価だ」と宣言される。市場の評価と、神の評価は違うのだ。
ローマ7章は、こう語りかけている。自分の弱さに打ちのめされている人へ。何度も同じ失敗を繰り返し、自分を取るに足らない者だと感じている人へ。その戦いは、あなたが見捨てられた証拠ではない。あなたの内に、すでにいのちが宿っている証拠なのだ。そして、その消耗しきったあなたに手を伸ばし、激流から引き上げ、「あなたは高価で尊い」と呼んでくださる御方が、確かにおられる。その御方の名を、イエス・キリストという。
だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのか——その問いを、今、あなた自身の問いとして発してみてほしい。答えは、もう、すぐそこまで来ている。
【語彙表(ギリシャ語・ヘブライ語)】
| 原語 | 発音 | 意味・ニュアンス |
|---|---|---|
| ἐπιθυμία | エピテュミア | 激しく欲する心。むさぼり・欲望。良い切望にも使う中立的な語(7:7-8) |
| ἀφορμή | アフォルメー | 機会・足がかり。元は軍事用語で「前線基地」「出撃拠点」(7:8, 11) |
| πεπραμένος | ペプラメノス | 売られて。奴隷として市場で売り渡された状態を表す強い語(7:14) |
| θέλω | テロー | 願う・意志する。パウロの意志は善い方を向いている(7:15, 18, 19, 21) |
| ἔσω ἄνθρωπος | エソー・アンスローポス | 内なる人。エソー(内側)+アンスローポス(人)。新生した者が持つ(7:22) |
| συνήδομαι | スネードマイ | 共に喜ぶ。スン(共に)+ヘードマイ(喜ぶ)。心から同意して喜ぶ(7:22) |
| νόμος | ノモス | 律法・原理・法則。本章で「神の律法」「心の律法」「罪の律法」など多重に響く一語 |
| αἰχμαλωτίζω | アイクマローティゾー | 捕虜にする・連行する。戦争で敵を縛り上げ連れ去る軍事用語(7:23) |
| ταλαίπωρος | タライポーロス | みじめな。長く苦しみに耐え、戦い疲れ消耗しきった状態(7:24) |
| ῥύομαι | ルオマイ | 救い出す。激流や敵の手から、力ずくで引き上げて救出する(7:24) |
| χάρις | カリス | 恵み・感謝。7:25「神に感謝」の原語はこの名詞。「神に恵みあれ」に近い(7:25) |
| 原語 | 発音 | 意味・ニュアンス |
|---|---|---|
| יָקָר | ヤーカル | 高価な・尊い。本来は宝石や貴金属の価値を表す語。神が塵のような者に語られる(イザヤ43:4) |

コメント