捨てた石が礎になる
——「すべての人は偽りを言う者だ」、それでも神は真実である——
——「すべての人は偽りを言う者だ」、それでも神は真実である——
2026年4月29日 レビ記18:21-30・詩篇116-118篇・使徒15:30-41
人間の罪はどこまで深くなりえるのか。そして、どれほど深い罪の歴史があっても、神は捨てた石を礎にされる方なのだろうか。今日の三箇所の通読は、カナンの偶像礼拝の闇から始まり、パニックの中で叫んだ詩人の本音を経て、初代教会の人間的な衝突の中にも神の摂理を見出す旅である。
| ※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。 |
| 【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(詩篇)、第三部(使徒)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。 |
目次
第一部 トーラー——モレクの火と、神の忍耐——
レビ記18章21節から30節は、カナンの地で行われていた宗教的慣行の中でも、最も重い警告が記されている箇所である。神はイスラエルに対して、カナンの民が行っていた「忌み嫌うべきこと」を列挙し、それらを決して取り入れてはならないと命じられた。
モレクとは何か
「あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない」(21節)。
モレク(מֹלֶךְ)は、カナン・フェニキア・アンモン人が崇拝した神であり、子どもを生きたまま炉で焼いて捧げる儀式と不可分に結びついていた。この儀式が行われた場所は、エルサレム南西のヒノムの谷(גֵּי הִנֹּם / ゲー・ヒンノム)であった。この地名が後に「ゲヘナ」——新約聖書で「地獄」を意味する言葉——の語源となったことは、場所そのものが持つ霊的な重さを物語っている。
ヒノムの谷の一角は「トフェト」と呼ばれた。この名称はヘブライ語の「タフ(תֹּף)」、すなわち太鼓に由来するという説がある。儀式の際、太鼓を激しく打ち鳴らして子どもの泣き声をかき消したというのである。エレミヤ書7章31節はこの場所を「主が命じず、心にも浮かばなかったこと」と記している。
偶像礼拝・姦淫・そして捨てられた命
モレクへの子捧げを理解するには、カナンの宗教の全体像を見る必要がある。カナンの神殿には「クデシャー(קְדֵשָׁה)」と呼ばれる神殿娼婦が存在し、豊穣を祈る儀式として性的な行為が礼拝の一部とされていた。こうした儀式的姦淫から生まれた子どもたちは、多くの場合「望まれない命」であった。モレクへの生贄は、その処理の宗教的正当化という側面を持っていた。偶像礼拝が姦淫を生み、姦淫が望まれない命を生み、その命がまた偶像の炉に捧げられる——罪は罪を呼ぶ連鎖構造を持っていた。
神がカナンの聖絶を命じられた背景には、この連鎖が数百年にわたって蓄積されていたという現実がある。一部の考古学者・歴史家の間では、これほどの残虐な慣行が社会全体に浸透した文明は、人道的観点からも早期に終わらせるべきだったという見方もある。神の審判は感情的な怒りではなく、罪の連鎖を断ち切る外科的介入として理解することができる。
神の御名を汚す、とはどういう意味か
21節の末尾に「あなたの神の御名を汚してはならない」とある。なぜ子どもを偶像に捧げることが、神の御名を汚すことになるのか。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| צֶלֶם אֱלֹהִים | ツェレム・エロヒーム | 神のかたち(人間の本質的尊厳) |
| מֹלֶךְ | モレク | カナンの偶像神・子を焼く神 |
| קְדֵשָׁה | クデシャー | 神殿娼婦(豊穣儀式と結びついた) |
ヘブライ的世界観において、人間は神のかたちに造られた存在(צֶלֶם אֱלֹהִים / ツェレム・エロヒーム)である。命の処分権は造り主である神のみにある。子どもをモレクの炉に投じるとは、神が与えた命を神以外のものに捧げることであり、それはそのまま神の主権を否定する行為となる。
四百年の忍耐
24節から27節にかけて、神はカナンの民がこれらの行為によって「汚れた」と述べ、それゆえ地が彼らを「吐き出す」と語られる。ここで創世記15章16節の言葉を思い起こす必要がある。神はアブラハムに対して「アモリ人の不義はまだ満ちていない」と告げていた。カナン征服はアブラハムへの約束から約四百年後のことである。神は気まぐれに民族を滅ぼしたのではない。四百年にわたって忍耐し、待ち続けた末の審判であった。
「地が吐き出す」という表現
これは聖書の中でも独特の表現である。ラビ的解釈では、地は神の前に倫理的な感受性を持つと考えられてきた。創世記4章10節でアベルの血が「地から主に叫んだ」のと同じ感覚である。地は単なる物質ではなく、神の被造物として罪に反応する。住民の罪が積み重なり、地そのものが拒絶反応を示す——この詩的かつ神学的なイメージは、罪が単なる個人の問題ではなく、共同体・社会・自然界全体に影響を与えるという聖書の一貫した世界観を反映している。
26節には「この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も」とある。神の基準は民族によって変わらない。イスラエルも例外ではなく、同じ罪を犯せば同じように「吐き出される」と警告されている。これは後のイスラエルの歴史——バビロン捕囚——において文字通り成就することになる。
現代の私たちはこの記述をどこか遠い古代の話として読みたくなる。しかし問いを立ててみると違う景色が見えてくる。豊穣を求めて、繁栄を求めて、社会的な地位を求めて——何かを手に入れるために、守るべき命や関係や信仰を犠牲にすることはないだろうか。モレクは形を変えて、あらゆる時代に現れる。
性的な行為が礼拝の一部とされた
望まれない命が生まれる
最初に犠牲にされる構造
子どもを生きたまま焼いて捧げる
アブラハムへの言葉から約400年、神は待ち続けた
罪の連鎖を外側から審判によって終わらせる
捨てられた石として・拒絶された者として
「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)
人間が捨てたものを、神は決して捨てない
第二部 詩篇——パニックの本音から、ホサナへ——
今日の通読には三つの詩篇が並んでいる。116篇・117篇・118篇。この三つは偶然に並んでいるのではない。ユダヤの礼拝において「ハレル(הַלֵּל)」と呼ばれる詩篇群——113篇から118篇——は、過越の祭りや仮庵の祭りで会衆が共に歌う賛美として用いられてきた。イエスが弟子たちと最後の晩餐を終えた後、「賛美の歌をうたってから」(マタイ26:30)オリーブ山へ向かったと記されているが、その「賛美の歌」がまさにこのハレルであったと考えられている。
詩篇116篇——あわてて叫んだ本音
116篇は個人の感謝の詩篇である。詩人は命の危機(3節「死の綱が私を取り巻き」)の中から神に叫び、救い出された経験を歌っている。
注目したいのは10節から11節の流れである。
「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。
ヘブライ語で「あわてて」は בְּחָפְזִי(ベハフズィー)——パニックの中で、恐怖で飛び上がって、という意味である。詩人は命の危機の中で人間的な助けを求めた。しかし頼りにしていた人たちは役に立たなかった。そのパニックの極限で口から飛び出た言葉が「すべての人は偽りを言う者だ(כֹּל הָאָדָם כֹּזֵב / コル・ハアダム・コゼブ)」であった。
ここで誤解しないようにしたい。詩人が叫んだのは「神は良いお方ではない」という神への不信ではない。「人間はみんな裏切る」という人間への絶望である。そしてこの言葉を詩人は後から「あわてて言った」と振り返っている。冷静な信仰の判断ではなく、パニックで口から出た言葉だったという自己認識がそこにある。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| בְּחָפְזִי | ベハフズィー | パニックの中で・恐怖で飛び上がって |
| כֹּל הָאָדָם | コル・ハアダム | すべての人間は |
| כֹּזֵב | コゼブ | 偽りを言う者・裏切る者 |
信仰者の記録でありながら、格好をつけていない。パニックで叫んだ本音まで聖典に記されている。これは「信仰があれば動揺しない」という幻想を静かに壊してくれる。動揺しても、パニックで叫んでも、そこから「でも神は真実だった」に戻ってくる——その往復運動そのものが信仰なのだと、この詩篇は語っている。
興味深いことに、パウロはローマ書3章4節でこの「すべての人は偽りを言う者だ」という言葉を引用し、「しかし神は真実である」という命題の根拠として用いている。詩人がパニックの中で叫んだ本音が、パウロの手によって福音の核心的な命題へと昇華されていく。聖書の重層性を感じる箇所である。
過越の四つの杯と「救いの杯」
13節の「救いの杯をかかげ」は見落とせない。ユダヤの過越の食事(セデル / סֵדֶר)では、出エジプト記6章6節から7節の四つの神の約束に対応して、四つの杯のワインを順番に飲む伝統がある。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| כּוֹס הַקִּדּוּשׁ | コス・ハキドゥーシュ | 聖別の杯——「わたしはあなたがたを連れ出す」 |
| כּוֹס הַהַגָּדָה | コス・ハハガダー | 告白の杯——「わたしはあなたがたを救い出す」 |
| כּוֹס הַבְּרָכָה | コス・ハベラハー | 救いの杯——「わたしはあなたがたを贖う」 |
| כּוֹס הַהַלֵּל | コス・ハハレル | 賛美の杯——「わたしはあなたがたを取る」 |
第三の杯は「救いの杯(コス・ハベラハー)」と呼ばれ、食事の後半、感謝の祈りの後に飲まれる。詩篇116篇13節の「救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう」——この「救いの杯」がまさにこの第三の杯と結びついている。
そしてルカ22章20節を見ると「夕食の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です』」とある。「夕食の後」——セデルの順序では、夕食の後に飲まれるのが第三の杯・救いの杯である。イエスはこの杯を手に取り「これはわたしの血の契約の杯」と言われた。詩篇116篇が歌う「救いの杯」は、何百年もの時を経て、その夜の食卓で成就した。
さらに注目したいのは第四の杯である。ゲッセマネでイエスは「この杯を取り除いてください」と祈られた(マタイ26:39)。多くの学者は、イエスは最後の晩餐で第四の杯——賛美の杯——を飲まずに席を立ったと考えている。そして十字架上で「成し遂げられた」と言われた瞬間、兵士がイエスの口に酸いぶどう酒を含ませたスポンジを差し出した(ヨハネ19:29-30)。これが第四の杯の成就であったという解釈がある。最後の晩餐からゲッセマネを経て十字架まで——一つの過越の食事が、丘の上で完成したのである。
| 杯 | ヘブライ語名 | 対応する神の約束(出6:6-7) | 最後の晩餐との対応 |
|---|---|---|---|
| 第一の杯 | コス・ハキドゥーシュ 聖別の杯 |
「わたしはあなたがたを 連れ出す」 |
食事の開始 |
| 第二の杯 | コス・ハハガダー 告白の杯 |
「わたしはあなたがたを 救い出す」 |
ハガダー(物語)の朗読 |
| 第三の杯 ★ | コス・ハベラハー 救いの杯 |
「わたしはあなたがたを 贖う」 |
「これはわたしの血の 契約の杯」(ルカ22:20) |
| 第四の杯 | コス・ハハレル 賛美の杯 |
「わたしはあなたがたを 取る」 |
飲まずに席を立った→ 十字架で完成 |
「これはわたしの血の契約の杯」と言われた
第四の杯(賛美の杯)を飲まずに席を立つ
→ 第四の杯(賛美の杯)の成就
詩篇117篇——最短の詩篇が語る最大のテーマ
117篇は聖書全体で最も短い章であり、わずか2節で構成されている。しかしその内容は広大である。「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え」——「すべての国々」「すべての民」——ここには明確に異邦人への開かれがある。パウロはローマ書15章11節でこの箇所を引用し、異邦人が神を賛美することの根拠として用いている。イスラエルだけの神ではなく、全人類の神であるという普遍的な宣言が、この二節に凝縮されている。
詩篇118篇——捨てた石が礎になる
118篇はハレルの締めくくりであり、最後の晩餐後にイエスと弟子たちが歌ったと考えられる詩篇の最終部分である。
22節から23節:
家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| אֶבֶן מָאֲסוּ הַבּוֹנִים | エヴェン・マアスー・ハボニーム | 建てる者たちが拒絶した石 |
| זֶה הַיּוֹם עָשָׂה יְהוָה | ゼー・ハヨーム・アサー・ヤハウェー | これは主が設けられた日 |
| הוֹשִׁיעָה נָּא | ホシア・ナー | 今すぐ救ってください(ホサナの語源) |
タルムードにはソロモン神殿建設の際、形が変だとして何度も捨てられ続けた石が、最終的に礎として不可欠であることがわかったという伝承が残っている。イエス自身がこの箇所を引用して自分について語った(マタイ21:42)。人間の目には価値がないと判断され、拒絶された者が、神の手によって全体の礎となる——この逆転こそが福音の核心である。
25節から26節の「ホサナ(הוֹשִׁיעָה נָּא / ホシア・ナー)」は「今すぐ救ってください」という叫びである。イエスがエルサレムに入城した時、群衆はこの詩篇を歌いながら迎えた。しかしイエスはマタイ23章39節で「あなたがたが『主の御名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時まで、あなたがたは決してわたしを見ることはできない」と語った。入城の時の熱狂的なホサナではなく、イスラエルが心からこの言葉の意味を理解して叫ぶ時——それは再臨の時を指している。詩篇118篇は過去の礼拝の歌であると同時に、まだ成就を待つ終末論的な預言でもある。
第三部 使徒——バルナバという恵み——
使徒15章30節から41節は、エルサレム会議の決定をアンテオケの教会に届けた後の場面から始まる。割礼問題という初代教会最大の神学的危機は、聖霊と長老たちの合意によって解決された。しかしその直後、今度は人間関係の危機が起きる。
預言者の言葉は人を励ます
30節から32節に「ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた」とある。
新約聖書における預言の賜物の目的について、パウロはコリント第一14章3節でこう定義している。「預言する者は、人を育て、励まし、慰めるために、人に向かって語ります」。預言とは未来予知だけを指すのではない。神のことばによって人の魂を建て上げる働き全体を含んでいる。
ユダとシラスがアンテオケの兄弟たちにもたらしたのは、エルサレムからの手紙だけではなかった。神のことばによる励ましそのものであった。手紙を読んだ人々が「その励ましによって喜んだ」(31節)と記されているのは、神のことばが単なる情報ではなく、命ある力として働いたことを示している。
ここで注目したいのは、使徒15章26節にすでに記されている評価である。シラスについて「主の御名のために命をささげた人」と記されている。これは単なる賛辞ではない。預言者として人を励ます言葉を語ることと、その言葉通りに命をかけて生きることが、シラスの中では一致していた。
伝承によれば、シラスはその後パウロとともにピリピで投獄され、鞭打たれ、マケドニアで生涯を終えた。東方正教会の伝承ではテサロニケの監督として殉教したとされている。ユダ(バルサバ)については聖書もその後の伝承も沈黙しており、「忘れられた人物」として歴史に残っている。しかしその沈黙もまた、記録されない場所で黙々と証しし続けた者の姿として読むことができる。
預言者として人を励ます言葉を語ること、そして証人(μάρτυς / マルテュス)として命をもってその証しを完成させること——この二つは初代教会において地続きであった。バプテスマのヨハネが「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と語り、その言葉通りに首をはねられたように。
パウロとバルナバの衝突
36節からパウロはバルナバに第二次宣教旅行を提案する。しかしここで問題が起きた。マルコとも呼ばれるヨハネをめぐる意見の対立である。
バルナバはマルコを連れて行こうとした。パウロは反対した。「パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよい」(38節)。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| παροξυσμός | パロクシュスモス | 激しい衝突・発作・痙攣 |
| μάρτυς | マルテュス | 証人・殉教者(同一語) |
| μαρτυρία | マルトゥリア | 証し・証言 |
ギリシャ語原文では「激しい反目」を παροξυσμός(パロクシュスモス)という言葉で表現している。医学用語では発作・痙攣を指すほどの激しい対立であった。
二人とも正しかった
ここで注目したいのは、聖書がどちらが正しかったかを明記していないという点である。パウロの判断には宣教の効率と責任という観点から一貫した論理があった。一方バルナバの判断には、失敗した者を見捨てないという恵みの論理があった。
バルナバという名は「慰めの子・励ましの子(בַּר נָבִיא)」を意味する。この名の通り、バルナバはマルコを見捨てなかった。その結果マルコはのちにペテロの通訳となり、福音書を書いた。そして晩年のパウロ自身が第二テモテ4章11節で「マルコは私に有益だ」と書いている。バルナバがいなければ、マルコによる福音書は存在しなかったかもしれない。
衝突の結果、宣教チームは二つに分かれた。バルナバはマルコを連れてキプロスへ。パウロはシラスを選んでシリヤ・キリキヤへ。一つの対立が二倍の宣教地をカバーすることになった。神は人間の衝突さえも用いられる。
失敗した者への眼差し
マルコがパンフリヤで一行を離れた理由は聖書に記されていない。しかしバルナバはその理由を問わず、もう一度機会を与えた。
初代教会において、一度失敗した者が回復して用いられた例はマルコだけではない。ペテロはイエスを三度否んだ。しかし復活のイエスは「わたしの羊を飼いなさい」と三度語りかけた。神の恵みは失敗の回数で上限を設けない。
バルナバ型の恵みは、パウロ型の力強さと同様に、福音宣教に不可欠である。失敗した者に「もう一度」と手を差し伸べる人がいなければ、回復した者が生み出す実も存在しない。
エヴェン・マアスー・ハボニーム・ハイタ・レロシュ・ピンナー
「家を建てる者たちの捨てた石、それが礎の石になった」
価値なしと判断
拒絶する
拾い上げる
礎となる
| 語 | ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
|---|---|---|---|
| 石 | אֶבֶן | エヴェン | 石・岩 |
| 捨てた | מָאֲסוּ | マアスー | 拒絶した・価値なしと判断した |
| 建てる者 | הַבּוֹנִים | ハボニーム | 建築者たち・判断する者たち |
| 礎の石 | רֹאשׁ פִּנָּה | ロシュ・ピンナー | 隅の頭・すべてを支える要石 |
第四部 全体の一貫性——捨てた石が礎になる、という福音の論理——
今日の三つの箇所——レビ記・詩篇・使徒——は、一見まったく異なる世界を描いているように見える。カナンの偶像礼拝と神の審判。個人の感謝と賛美の詩篇。初代教会の宣教と人間関係の衝突。しかしこれらを貫く一本の糸がある。
捨てられたものが、礎になる
レビ記18章が描くカナンの世界では、命が捨てられた。望まれない命がモレクの炉に投じられた。偶像礼拝の連鎖の中で、最も弱い者——生まれたばかりの子ども——が最初に犠牲にされた。
詩篇118篇22節は「家を建てる者たちの捨てた石、それが礎の石になった」と歌う。建てる者たちが価値なしと判断して捨てた石が、全体を支える礎となる逆転。これはイエス・キリストの十字架と復活を指す預言として新約聖書全体に引用されている。
使徒15章ではマルコが「捨てられた」。パウロの目には宣教に値しない者と映った。しかしバルナバはその石を拾い上げた。結果としてマルコは福音書記者となった。
三つの箇所に共通するのは、人間が捨てたものを神が用いるという一貫した論理である。
罪の連鎖を断ち切る十字架
レビ記18章が描いた罪の構造——偶像礼拝が姦淫を生み、姦淫が望まれない命を生み、その命が炉に投じられる——は、罪が罪を呼ぶ連鎖である。神はこの連鎖を四百年間見つめ、忍耐し、最終的に審判によって断ち切った。
しかし新約の光の中でレビ記を読むと、より深い断ち切りが見えてくる。十字架において神は、罪の連鎖を外側から審判するのではなく、御自身がその連鎖の中に入られた。捨てられた石として、拒絶された者として、モレクの炉とは比べものにならない苦しみの中に入られた。そして「成し遂げられた」という言葉とともに、罪の連鎖そのものを内側から断ち切った。
パニックの本音と、それでも真実である神
詩篇116篇の詩人は「あわてて」叫んだ。パニックの中で「すべての人は偽りを言う者だ」と叫んだ本音が聖典に残された。しかしその叫びの向こうに「それでも神は真実である」という確信が貫いている。
パウロはローマ書3章4節でこの詩篇を引用し「すべての人は偽りを言う者であっても、神は真実である」と語った。人間の不真実と神の真実の対比——これは福音の構造そのものである。人間はモレクに子どもを捧げるほどの罪を持ち、パニックで神を疑い、宣教の途中で逃げ出す。それでも神は真実である。その真実が十字架となり、復活となり、第三の杯(救いの杯)となった。
ホサナ——まだ完成していない賛美
詩篇118篇のホサナは「今すぐ救ってください」という叫びである。イエスはエルサレム入城の時にこの賛美で迎えられたが、マタイ23章39節で「あなたがたが『主の御名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時まで、わたしを見ることはできない」と語った。
この賛美はまだ完成していない。イスラエルが心からホサナと叫ぶ時——それは再臨の時である。詩篇118篇は過去の礼拝の歌であると同時に、成就を待つ預言でもある。
レビ記の罪の現実から始まり、詩篇のパニックの本音を経て、使徒の時代の宣教の衝突を通り、私たちは今もその「ホサナ」の途上にいる。捨てた石が礎になる日、その完成を待ちながら、今日も主の御名を呼び求める。
「主が設けられた日」——三層の意味
詩篇118篇24節「これは、主が設けられた日である」——ヘブライ語原文 זֶה הַיּוֹם עָשָׂה יְהוָה(ゼー・ハヨーム・アサー・ヤハウェー)は、一つの「日」に三つの意味が重なっている。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| זֶה | ゼー | これが・まさにこの |
| הַיּוֹם | ハヨーム | その日・今日 |
| עָשָׂה | アサー | 造った・設けた・行われた |
| יְהוָה | ヤハウェー | 主 |
第一層は礼拝の「今この瞬間」である。詩篇118篇はもともと神殿での礼拝の典礼詩篇であり、祭司と会衆が交互に歌い交わした。この文脈では「今日この礼拝の日、神殿に集まったこの瞬間そのものが、主が設けてくださった日だ」という意味を持つ。ユダヤ教の礼拝神学では、礼拝の瞬間は単なる過去の記念ではない。過越の祭りで「私たちがエジプトから出た」と現在形で語るように、過去の救いの出来事が今ここに臨在するという感覚がある。
第二層は復活の特定の歴史的な日である。捨てた石が礎になった——その逆転が実際に起きた復活の朝こそ、「主が設けられた日」の歴史的成就であった。初代教会がユダヤ教の安息日(土曜)ではなく復活の日(日曜)を「主の日(κυριακή / キュリアケー)」と呼んだ背景には、この詩篇がある。
第三層はまだ来ていない終末の日である。イエスがマタイ23章39節で「ホサナと言う時まで」と語ったことと連動して、この「日」は再臨の完成の日を指す。イスラエルが心からホサナと叫ぶ時、捨てた石の礎としての完全な顕現——それが再臨の日である。
今日この礼拝の瞬間・復活の朝・再臨の日——この三層が一つの「ハヨーム(今日)」に重なっているのがヘブライ詩篇の豊かさである。「今日」と言いながら、過去の救いと未来の完成が同時に視野に入っている。だから信仰者が毎朝御言葉を開いて「今日も主の御前を歩む」と言う時、その「今日」にもこの詩篇の「ハヨーム」が重なっている。毎日が「主が設けられた日」なのである。
これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(詩篇118:24)
ゼー・ハヨーム・アサー・ヤハウェー
| 語 | ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
|---|---|---|---|
| これが | זֶה | ゼー | まさにこの・これこそが |
| 今日 | הַיּוֹם | ハヨーム | その日・今日(三層に重なる) |
| 設けた | עָשָׂה | アサー | 造った・設けた・行われた |
| 主 | יְהוָה | ヤハウェー | 主(神の固有名) |
今日この礼拝の瞬間そのものが、主が設けてくださった時間——。
過越の祭りで「私たちがエジプトから出た」と現在形で語るように、
過去の救いの出来事が今ここに臨在する。
初代教会がユダヤ教の安息日(土曜)ではなく
復活の日(日曜)を「主の日(κυριακή / キュリアケー)」と呼んだのは
この詩篇が背景にある。
わたしを見ることはできない」(マタイ23:39)
イスラエルが心からホサナと叫ぶ時——すべての逆転が完全に現れる日。
詩篇118篇は過去の歌であると同時に、まだ成就を待つ預言でもある。
その「今日」にもこの詩篇の「ハヨーム」が重なっている。
毎日が「主が設けられた日」なのである。
※本記事ブログ「聖書の名言集」(tehiri-mu.com)の通読記事を(聖書の専門用語を知らない、聖書初心者の方の為に)再構成したものがnoteで読めます。


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