聖書通読 2026.6.1 民数記6章 伝道者の書4章5章 ローマ人への手紙11章1節から24節——三つ撚りの糸と、折られないオリーブの枝——

ヘブライ語
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通読箇所:民数記6章/伝道者の書4〜5章/ローマ人への手紙11章1〜24節

あなたは、神に立てた誓いを、最後まで守りきれたことがあるでしょうか。守れなかったとき、その関係は切れてしまったのでしょうか。今日の三つの箇所は、まるで関係のない話に見えて、実は「誓願」という一本の糸でつながっています。人が結ぶ糸は脆く、ほどけ、ときに折れます。けれども、その先にもう一つの糸があることを、聖書は教えてくれます。

本記事について
本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】
第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部|民数記6章 — 神に差し出す者、神が見つめる者

民数記6章は、一見すると二つの無関係な話が並んでいるように見える。前半はナジル人という特別な誓いを立てた人の規定、後半は有名な「アロンの祝福」だ。けれども、この二つを並べて読むと、一本の見えない糸でつながっていることに気づく。

まず「ナジル人」という言葉そのものに目を留めたい。この名前のもとになっているのは「分離する・区別する」という意味の動詞だ。発音すると「ナーザル」。つまりナジル人とは、何かから自分を引き離し、神のために取り分けられた人のことを指す。

その分離は、三つのかたちで現れる。第一に、ぶどう酒も強い酒も、いやぶどうの実そのものも口にしない(6:3-4)。ぶどう酒は聖書の世界では喜びと宴の象徴であり、日常の楽しみそのものだ。ナジル人はその楽しみを一時的に手放す。第二に、髪にかみそりを当てない(6:5)。これは最も目に見えるしるしだ。第三に、たとえ父母兄弟が死んでも、その死体に近づかない(6:6-7)。死は汚れであり、いのちの神に属する者は、それに触れない。

ここで注目したいのは、髪を伸ばすという規定の意味だ。聖書において、聖さは多くの場合、人の内側に隠れている。けれどもナジル人だけは、その聖別が頭の上に、誰の目にも見えるかたちで乗っている。聖書ははっきりこう述べる——「その頭には神の聖別があるからである」(6:7)。伸びていく髪は、神への献身が日に日に積み重なっていく、目に見えるしるしなのだ。だからこそ、もし誰かが突然そばで死んで聖別が汚されたなら、その髪をすべてそり落とし、最初からやり直さなければならなかった(6:9-12)。彼の献身は、それほどまでに真剣なものだった。

ナジル人とは、要するに「自分を神に向かって差し出す人」である。視線は人から神へと向かっている。ところが章の後半、6章24節から、視線の向きが突然逆になる。

『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』(6:24-26)

これは祭司アロンが民の上に宣言する祝福のことばだ。三度くり返される「主が……」という構文の中心にあるのが「御顔」——発音すると「パーニーム」だ。聖書において、神が御顔をそむけることは裁きを意味し、御顔を向けることは祝福を意味する。ここでは神のほうから、人に向かって顔を上げ、まなざしを注いでくださる。

つまりこの章は、二つの視線が往復している。前半では、ナジル人が自分を神に差し出す(人から神へ)。後半では、神が御顔を人に向けてくださる(神から人へ)。聖別とは、人が一方的にがんばることではなく、差し出す者と見つめてくださる方とのまなざしの交わりなのだ。

そして章の最後、神はこう約束する。「彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう」(6:27)。祝福の源は、祭司の力でも民の熱心さでもない。神ご自身が「わたしが祝福する」と引き受けてくださる。この「神が引き受けてくださる確かさ」は、第三部のローマ11章で、もう一度大きく響くことになる。

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第二部|伝道者の書4〜5章 — 結べる糸、結んではならない糸

伝道者の書を貫くのは「むなしい」ということばだ。原語の響きは「ヘベル」——もともとは「息・蒸気・つかの間の煙」を意味する。手でつかもうとした瞬間に消えてしまう、あのはかなさだ。コヘレト(伝道者)は、この世のあらゆる労苦を見渡しては「これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」とため息をつく。

4章でも、そのため息は続く。しいたげられる者の涙、慰める者のいない孤独、ねたみから生まれる労苦——どれも煙のように手の中で消えていく。けれども、その暗い連なりの中に、突然あたたかい光がさす箇所がある。

ふたりはひとりよりもまさっている。……どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。……三つ撚りの糸は簡単には切れない。(4:9-12)

倒れたときに起こしてくれる人がいる。寒い夜にぬくもりを分け合える人がいる。一本の糸は弱くても、三本を撚り合わせれば簡単には切れない。むなしさを見つめ続けてきたコヘレトが、ここでだけは「人と人との結びつきには、確かな強さがある」と認めている。これは聖書全体の中でも、ひときわ印象的な一節だ。

ところが5章に入ると、コヘレトはもう一種類の「糸」について語りはじめる。それは、人と神とを結ぶ糸——すなわち誓願だ。5章の入り口で、コヘレトはまず態度をただす。「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ」(5:1)。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ」(5:2)。神の前では、軽々しく口を開いてはならない、と。そしてここからが、今日の通読の核心の一つだ。

神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。……誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。(5:4-5)

ここで「誓願」と訳されていることばは、実は第一部の民数記6章で、ナジル人が立てた「誓願」とまったく同じことばなのだ。発音すると「ネデル」。神に向かって「私はこうします」と差し出す約束のことである。

興味深い対比がここにある。三つ撚りの糸——人と人との結びつきは、撚り合わせるほど強くなり、切れにくくなる。けれども、人が神に向かって結ぼうとする糸は、軽々しく結んではならない。なぜなら、人はその糸を最後まで保てるほど強くないからだ。だからコヘレトは言う。「誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい」。立派な誓願よりも、果たせる正直さのほうがまさる、と。

ここに人間の現実が透けて見える。人は神に何かを差し出したいと願う。けれどもその誓いを最後まで保ちきる力が、自分の中にはない。だからこそコヘレトの結論は、自分の誓いの立派さに頼ることではなく、ただ一点に集約される——「ただ、神を恐れよ」(5:7)。「恐れる」という原語の響きは「ヤーレー」。おびえることではなく、神を神として畏れ、その前にへりくだることだ。

そしてコヘレトは、この章の終わりで意外なほど穏やかな結論にたどり着く。富を追い求めても、人は裸で生まれ裸で帰っていく(5:15)。手に握りしめられるものは何もない。それなら、神が許してくださる日々の中で、食べ、飲み、自分の労苦を喜ぶこと——「これこそが神の賜物である」(5:19)。むなしさを知り尽くした人が、最後に見いだしたのは、神の手から受け取る一日一日への感謝だった。人の誓いは脆い。それでも神を恐れて生きる者には、日々の糧の中に、確かな喜びが備えられている。では、人の側の糸がこれほど脆いとき、神の側の糸はどうなのか——その問いに、第三部のパウロが答えていく。

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第三部|ローマ11章1〜24節 — 折られない枝

第二部で見たのは、人の側の糸の脆さだった。人は神に誓願を立てても、それを最後まで保ちきれない。では、神の側はどうなのか。神が一度結んだ糸は、人の不信仰によって切れてしまうのか。パウロはこの問いに、真正面から答える。

すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。(11:1)

「絶対にそんなことはない」——これはパウロが最も強く否定するときに使う表現だ。彼は自分自身を証拠として差し出す。「この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です」(11:1)。神に背いていたこの私が今こうして救われている、それ自体が「神は民を捨てていない」何よりの証拠だ、と。

パウロはここで預言者エリヤの物語を引く(11:2-4)。エリヤが「私だけが残されました」と嘆いたとき、神は「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」と答えられた。人の目には誰も残っていないように見えるときでさえ、神はご自分のために人を残しておられる。パウロはこれを今の時代に重ねる。「今も、恵みの選びによって残された者がいます」(11:5)。神は、いつの時代にも「残りの者」を確保しておられるのだ。

そしてパウロは、イスラエルのつまずきにさえ、神の深い計画を見る。彼らがつまずいたのは倒れるためではない。「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです」(11:11)。神は、イスラエルの一時的なつまずきさえも、世界全体の救いへと織り込んでおられる。ここからが、今日の通読で最も有名なたとえ——接ぎ木のたとえだ。

初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。(11:16)

ここで「聖い」と訳されていることばは、ギリシャ語で「ハギオス」。神のために取り分けられている、という意味だ。これは第一部で見たナジル人の「聖なるもの」、つまり神に取り分けられた者と、まさに同じ発想に立っている。聖さは枝が自分で生み出すものではない。根が聖いから、そこにつながる枝も聖いのだ。

パウロが描くのはこういう光景だ。一本のオリーブの木がある。その根は、神が約束を与えた父祖たち——アブラハム、イサク、ヤコブだ。本来の枝のうち、あるものが折られた。神を信じなかったイスラエルの一部である。そこへ、野生のオリーブの枝——すなわち異邦人——が接ぎ木された。栽培されたオリーブに野生の枝を接ぐというのは、自然界ではありえない逆の接ぎ方だ。それほど一方的な恵みによって、異邦人は聖い根の養分にあずかった。だからこそ、パウロは強く釘を刺す。「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。……あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです」(11:18)。

そして、ここで第二部のことばが、はっきりと響き返してくる。

高ぶらないで、かえって恐れなさい。(11:20)

コヘレトが「ただ、神を恐れよ」と言ったあの「恐れ」が、ここでパウロの口からも語られる。接ぎ木されたことを誇るのではなく、神を畏れること。なぜなら「もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう」(11:21)だからだ。パウロは神の二つの面を並べて示す。「神のいつくしみときびしさ」(11:22)。倒れた者の上にあるのは厳しさ、立っている者の上にあるのはいつくしみ——ただし、そのいつくしみの中にとどまっているなら、という条件付きで。

それでも、物語はここで閉じない。折られた枝にさえ、希望が残されている。「彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです」(11:23)。ここに、第一部の約束が大きく響く。民数記6章で神は「わたしが祝福する」とご自分から引き受けてくださった。その神は、一度折れた枝さえも、ご自分の手で再び接ぎ合わせることができる。人の誓いは脆くて切れる。けれども、神が結んだ糸は——たとえ人がそれを引きちぎろうとしても——神の手によって、もう一度結び直されるのだ。

【図解①|接ぎ木のたとえ図】

接ぎ木のたとえ ― 折られない枝
ローマ人への手紙 11章17〜24節
枝(人々)
折られた枝
不信仰によって折られたイスラエルの一部(11:20)。ただし永久ではない。
本来の枝
そのまま残された、信じるイスラエル(恵みの選びによる残りの者・11:5)。
接がれた野生の枝
本来つながる資格のなかった異邦人=私たち(11:17)。恵みによって接がれた。
幹 ― 栽培されたオリーブの木
神が育ててこられた、約束の木
聖い根 ― 父祖たちへの約束
アブラハム・イサク・ヤコブ
「根が聖ければ、枝も聖い」(11:16)
① 根が枝を支える(11:18)
枝が根を支えるのではない。立てるのは、根につながっているからだ。
② 高ぶるな、かえって恐れなさい(11:20)
「恐れる」=ギリシャ語の フォベオー。誇りではなく、神への畏れ。
③ 神は再び接ぎ合わせられる(11:23)
折られた枝にも希望がある。神の手は、もう一度結び直す。

第四部|一貫性 — 人の誓願は脆く、神の誓いは切れない

今日の三つの箇所は、一見するとまるで関係がないように見える。荒野のナジル人の規定、むなしさを見つめる賢者のことば、オリーブの接ぎ木をめぐる使徒の議論。けれども、これらを並べて読むと、一本の糸が三つを縫い合わせていることに気づく。その糸の名は「誓願」だ。

第一部で、ナジル人は神に向かって誓願を立てた。神のために自分を取り分け、酒を断ち、髪を伸ばし、死から離れた。それは人が神に向かって差し出す約束だった。第二部で、コヘレトは同じことば——「誓願」——を口にする。そして警告する。「誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい」と。なぜなら、人はその誓いを最後まで保てるほど強くないからだ。人の側の糸は、立派に結んだつもりでも、いつのまにかほどけてしまう。

ここで、今日のタイトルに込めた二つのイメージが立ち上がる。コヘレトは「三つ撚りの糸は簡単には切れない」と言った。人と人とが撚り合わさるとき、その結びつきには確かな強さがある。けれども、人が神に向かって一人で結ぼうとする糸は、それほど強くない。だからこそ問いが残る——では、私たちと神とを結ぶ、本当に切れない糸はどこにあるのか。その答えが、第三部のパウロにある。切れない糸は、私たちの側にではなく、神の側にあった。

パウロが描いたオリーブの木を思い出したい。私たちは野生の枝にすぎない。本来、聖い根につながる資格などなかった。それなのに、神は一方的な恵みによって私たちを聖い根に接ぎ合わせてくださった。ここで決定的なのは、パウロのこの一言だ。「あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです」(11:18)。私たちが信仰によって立っていられるのは、私たちの誓いが立派だからではない。神の約束という根が、下から私たちを支え続けているからだ。

だからこそ、聖別された者の正しい姿勢は、誇りではない。コヘレトが「ただ、神を恐れよ」と言い、パウロが「高ぶらないで、かえって恐れなさい」と言ったのは、同じ一つの真理だった。神に取り分けられた者は、自分の聖さを誇るのではなく、自分を取り分けてくださった方を畏れる。聖さは枝が生み出すものではなく、根から流れてくるものだからだ——ナジル人の聖別も、接がれた枝の聖さも、源は一つ、神ご自身にある。

そして、ここに今日の通読の最も大きな慰めがある。人の誓願は脆く、ほどけ、ときに折れる。けれども神が結んだ糸は、人がそれを引きちぎろうとしても、神の手によって結び直される。折られた枝にさえ、神はこう約束された。「神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです」(11:23)。これは、第一部で神がご自分から引き受けてくださった約束——「わたしが祝福する」——の、壮大な響き返しだ。

私たちは自分の信仰の強さを誇ることはできない。日によって熱くなり、日によって冷める。誓ったことを果たせず、うなだれる日もある。けれども、私たちを支えているのは私たちの握力ではなく、私たちを握っておられる神の御手だ。御顔をそむけず、私たちを見つめ続け、たとえ枝が折れたように見えるときでさえ、もう一度接ぎ合わせてくださる方——その神の真実こそが、決して切れない糸なのだ。

イスラエルが捨てられなかったように、神はどんな民をも忘れない。一度遠く折れたように見える者をも、再び接ぎ合わせる力が、神にはある。この約束は、今この国に生きる私たちにとっても、消えない希望の光である。

【図解②|切れない糸 統合図 】

切れない糸 ― 人の誓願と神の誓い
三つの箇所を貫く一本の糸「誓願」
民数記6章 ― 人が神に誓願を立てる
ナジル人が自分を神に取り分ける(誓願=ヘブライ語 ネデル)。人から神へ差し出す約束。
伝道者の書4〜5章 ― その糸は脆い
「三つ撚りの糸は簡単には切れない」(4:12)。だが神への誓願(同じ ネデル)は別だ。「誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい」(5:5)。人はそれを保ちきれない。
ローマ11章 ― 神の誓いは切れない
「神はご自分の民を退けてしまわれたのか。絶対にそんなことはありません」(11:1)。折られた枝さえ、神は再び接ぎ合わせられる(11:23)。
二つの糸の違い
人が結ぶ糸(誓願)
立派に結んでも、いつのまにかほどける。だから軽々しく結べない。
神が結ぶ糸(約束)
人が引きちぎろうとしても、神の手によって結び直される。これが切れない糸。
取り分けられた者の応答 ― 誇りではなく、畏れ
「ただ、神を恐れよ」(伝5:7/ヘブライ語 ヤーレー
「高ぶらないで、かえって恐れなさい」(ロマ11:20/ギリシャ語 フォベオー

語彙表

ヘブライ語

原語発音意味
נָזַרナーザル分離する・神のために取り分ける
פָּנִיםパーニーム御顔・顔
קָדוֹשׁカードーシュ聖なる・取り分けられた
נֶדֶרネデル誓願・神への約束
יָרֵאヤーレー恐れる・畏れる(語尾のאは弱く「ヤレー」とも)

ギリシャ語

原語発音意味
ἅγιοςハギオス聖い・取り分けられた
φοβέωフォベオー恐れる・畏れる

🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。

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