目次
「なんだかな?」から始まった朝の通読
士師記21章を読み終えた時、正直に言うと「なんだかな?」という思いが心に残りました。
ベニヤミン族の存続のために、ヤベシュ・ギルアデの女性たちが虐殺され、シロで踊っていた娘たちが略奪されて妻にされる。女性は子どもを産む道具のように扱われ、人権など考慮されていない。「これが罪にならないのか?」と疑問に思ってしまう箇所です。
聖書は神の言葉なのに、こんな疑問を持つことは信仰的に問題なのだろうか?
でも、この「なんだかな?」という正直な感覚こそが、実は大切な学びへの入口だったのです。
士師記21章が示す暗闇の深さ
士師記は、この章の最後にこう記しています:
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21:25)
この一文が、士師記全体への神の評価です。
聖書はこれらの出来事を記録しているのであって、推奨しているのではありません。むしろ、神の基準から離れた人間がどれほど深い暗闇に陥るかを示すために記録されているのです。
士師記21章の問題点は明らかです:
- 誓いの絶対視:「娘を与えない」という人間の誓いを、神の命令より優先した
- 虐殺の連鎖:ヤベシュ・ギルアデの人々を虐殺して妻を奪う
- 略奪婚の容認:シロでの娘たちの誘拐を計画的に実行
- 女性の人格無視:完全に「部族存続の道具」として扱われている
これらは明らかに罪です。創世記2章でアダムとエバの結婚は、お互いが相手を選び、喜んで受け入れる形で描かれています。それが神の本来の計画でした。士師記21章は、その計画からどれほど離れてしまったかを示しているのです。
「なんだかな?」と感じた私の直感は、間違っていなかったのです。
創世記18章―主の心とアブラハムの執り成し
士師記の暗闇を見る前に、もう一つの箇所が心に留まりました。創世記18章です。
主はアブラハムに、心の内を明かされます:
「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義(צְדָקָה/ツェダカー)と公正(מִשְׁפָּט/ミシュパート)とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」(創世記18:17-19)
主が心の中で考えたこと、その独り言を、聖書は記録しています。主がアブラハムを選ばれた理由、主がアブラハムに期待されていること。それは正義と公正でした。
**ツェダカー(正義)**は、神との正しい関係。神の基準に沿って生きること。 **ミシュパート(公正)**は、その関係に基づく正しい判断と行動。弱者を守り、正しく執り成すこと。
そして興味深いことに、主がこれを語った直後、まさにこの正義と公正がテーマとなるソドムへの裁きが始まります。
アブラハムの執り成し―人間の限界
アブラハムは主の前に立ち、執り成しを始めます:
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。その五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」(創世記18:23-25)
アブラハムの執り成しは、正義と憐れみの統合でした:
- 神の**正義(義)**を認めながら(「全世界をさばくお方は、公義を行うべき」)
- 同時に憐れみを求める
50人から始まり、45人、40人、30人、20人…そして最後は10人まで。「私はちりや灰にすぎませんが」と言いながらも、アブラハムは粘り強く執り成します。この執り成しには、アブラハムの豊かな愛が表れています。主が選ばれた器としての人格が輝いています。
でも、それ以下は言えませんでした。なぜなら、ソドムの状況は、ロトの家族さえ救い出すのが困難なほど深刻だったからです。人間の執り成しには限界があるのです。
真の執り成し主の到来
だからこそ、イエス・キリストが来られました。
十字架において:
- 神の正義が完全に満たされ(罪の代価が支払われ)
- 神の憐れみが完全に現され(罪人が義とされ)
- 完全な執り成しが成就しました
イエス様は今も、父の右の座で私たちのために執り成しておられます(ヘブル7:25)。たった一人の義人もいない私たちのために。
私たちの正義とは
では、私たちの**正義(義)**とは何でしょうか。
それは、主にあって義とされた身分を自覚することです。
神は既に、十字架において、私たちを義と宣言してくださいました。これは完了した事実です。
問題は、私たちが心の中で「本当に私は義とされているのか?」と疑い続けることです。醜い心が湧き上がる度に、「私は救われていい人間なのか?」と不信仰になってしまう。
でも、ローマ6:11はこう命じます:
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
ギリシャ語で「思いなさい」**λογίζομαι(ロギゾマイ)**は、「計算しなさい」「認識しなさい」「事実として受け取りなさい」という意味です。
つまり:
- 神が「あなたは義だ」と宣言された
- 私たちは「はい、私は主にあって義です」と自覚して生きる
これが、私たちの正義を行うということなのです。
完璧に罪を犯さないことではありません。 心に醜いものが湧き上がらないことでもありません。 それでも、「私は主にあって義である」という身分を自覚し続けること。
これこそが、アブラハムに求められた「正義と公正を行う」の、新約的な完成形なのです。
ルツ記1章―暗闇の中に差し込む光
士師記からルツ記に入った時、まるで別世界が広がりました。
ルツ記1章1節は、こう始まります:
「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。」
つまり、ルツ記は士師記と同じ時代の物語なのです。「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」あの暗闇の時代に、こんな美しい物語があった。
ナオミ―完璧ではないが、本物
ナオミは決して完璧な人ではありませんでした。
夫と二人の息子を失った彼女は、こう言います:
「私をナオミ(נָעֳמִי/ナオミ=快い)と呼ばないで、マラ(מָרָא/マラ=苦い)と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。」(ルツ記1:20)
かなり率直に、神に対する不満を表明しています。完璧な信仰者とは言えないかもしれません。
でも、ナオミは本物でした:
- 苦しみの中でも、神から離れなかった
- モアブから、「主が民を顧みられた」と聞いて帰った(1:6)
- 嫁たちに「主があなたがたに恵みを賜り」と祝福した(1:8)
- 困難の中でも、嫁たちを自分の娘のように愛した
そして、そのナオミの本物の信仰と愛が、ルツを引きつけたのです。
ルツの献身―本物が本物を生む
ルツの有名な献身の言葉:
「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記1:16)
ヘブル語で見ると、この言葉の美しさが更に際立ちます:
- אֶל־אֲשֶׁר תֵּלְכִי אֵלֵךְ(エル・アシェール・テレキ・エレク/あなたの行く所へ私も行く)
- עַמֵּךְ עַמִּי(アメーク・アミ/あなたの民は私の民)
- וֵאלֹהַיִךְ אֱלֹהָי(ヴェロハイク・エロハイ/あなたの神は私の神)
ルツはナオミの完璧さに惹かれたのではありません。困難の中でも神を信じ続け、真の愛を示し続けた、その本物さに惹かれたのです。
完璧でなくても、本物であれば、人を神へと導くことができる。これが、士師記の暗闇の中で輝いたルツ記の光でした。
心から出る醜さとの戦い
でも、この「本物であること」は、決して簡単ではありません。
マタイの福音書15章で、イエス様はこう言われました:
「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」(マタイ15:18-19)
ギリシャ語ではἐκ τῆς καρδίας(エク・テース・カルディアス/心の中から)と書かれています。
この言葉を読んだ時、正直に告白すれば、私は苦しくなりました。
聖くなりたいと願っているのに、実際には醜い心の思いがふつふつと湧き上がってくる。これを見る時、「私は救われていい人間なのか?」と不信仰にさえなることがあります。
どんなに努力しても、心の醜さを完全に取り除くことはできない。
でも、この葛藤こそが、実は健全な証拠なのだと気づきました。自分の心の醜さに気づいて苦しむ人は、既に神の光に照らされている人です。光がなければ、暗闇は見えませんから。
完成に向かって進む―「完全」の本当の意味
そんな中で、ある朝、以前読んで励まされた言葉を思い出しました。新宿シャローム教会の富田ひさえ師の【マナメール】「キリストにあって満ち満ちて生きる」からの言葉です:
「神様が私たちに願う『完全であるように』とは、『完成に向かって進みなさい』なのです。」
「親として今何点であるかが問題ではありません。目標に向かって進んで行くことが大切です。10点なら20点、20点なら30点になるように目指して行けばいいのです。」
「10があるから20があり、20があるから30へと進んでいけるのです。10も完全であり、20も完全なのです。10が完全でなければどのようにして100に到達することができるでしょうか。今、10であること、20であることを嘆くのではなく、今自分に与えられたステージを主に感謝しましょう。」
この言葉は、私の心に深く響きました。
新約聖書の「完全」τέλειος(テレイオス)は、「完璧」という意味ではなく、「完成された」「成熟した」「目的を達成した」という意味です。これは静的な「完璧さ」ではなく、動的な「完成への歩み」を意味するのです。
ナオミは10点だったかもしれません。苦しみの中で、神に文句を言いました。 でも、その10点は10点として完全でした。なぜなら、神から離れなかったから。
ルツはモアブ人として生まれ、イスラエルの神を知らない状態からスタートしました。 でも、その段階もその段階として完全でした。なぜなら、真実を求める心があったから。
そして私たちも同じです。今の段階が何点であろうと、その段階で完全なのです。なぜなら、主にあって義とされた身分を自覚し、そこから歩み始めているからです。
弱さの中でこそ現れる力
ひさえ師はこうも書いています:
「弱さの中でこそ、挫折の中でこそ、葛藤の中でこそ、痛みの中でこそ、私たちは砕かれ、飢え渇いて主を求め、御霊の力を受けて、主にあって満ち満ちて生きることができるのですから。」
これは、パウロが第二コリント12章で語った真理と同じです:
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。」(第二コリント12:9)
ギリシャ語ではἐν ἀσθενείᾳ τελεῖται(エン・アスセネイア・テレイタイ)「弱さの中で完成される」。
完璧な人など一人もいません。でも、弱さを認めて神に頼る人、主にあって義とされた身分を自覚して歩む人、それが本物なのです。
キリストにあって満ち満ちている
コロサイ人への手紙2章9-10節はこう言います:
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」
ギリシャ語で「満たされている」πεπληρωμένοι(ペプレーローメノイ)は完了形です。つまり、既に完了している事実なのです。
私たちの努力で「満たす」のではありません。 キリストにある者は既に満ち満ちているのです。
結婚が私を満たすのではない。 子どもが私を満たすのではない。 健康や豊かさが私を満たすのではない。 キリストだけが私を満たすのです。
そして、キリストにあって満ち満ちているなら、今いる場所、今の段階で、私たちは完全なのです。
種から実へ―見えないプロセスを信頼する
ひさえ師は植物の成長について、こう書いています:
「すぐに芽が出ないからと言って、その種が欠陥品だと誰が言うでしょうか。何も変化がないように感じても、土の奥深くで、次の段階に進むための準備をしているのです。見えないところで深く根をはる長い忍耐の期間こそ大切な期間です。」
種は種として完全です。 芽は芽として完全です。 葉は葉として完全です。
それぞれの段階に意味があり、それぞれの段階を経てこそ、豊かな実を結ぶことができるのです。
士師記の暗闇の時代も、決して無駄ではありませんでした。その中でルツとボアズが出会い、その子孫からダビデが生まれ、そしてイエス・キリストが生まれるのです。
暗闇の中でも、神は見えないところで働いておられるのです。
ベツレヘムからの希望
ルツ記1章の最後は、こう締めくくられます:
「こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。」(ルツ記1:22)
ベツレヘム(בֵּית לֶחֶם/ベイト・レヘム)。その名は「パンの家」という意味です。
このベツレヘムで、ルツとボアズの物語が展開します。 このベツレヘムから、ダビデ王が生まれます。 そしてこのベツレヘムで、いのちのパンであるイエス・キリストが生まれるのです。
士師記の暗闇がどれほど深くても、神は光をもたらされます。 ナオミがどれほど「マラ(苦い)」と感じても、神は「ナオミ(快い)」へと回復させてくださいます。
私たちも、今どんな暗闇の中にいても、どんなに不完全だと感じていても、希望があります。
なぜなら、完璧である必要はないからです。 本物であればいいのです。
神に正直であること。 どんな時でも主を見上げ、信じ続けること。 弱さを認めて、神に頼ること。 主にあって義とされた身分を自覚すること。 そして、神から受けた愛で、不完全ながらも人々を愛し続けること。
それが、シェマーの祈り(申命記6:4-5)の本質です:
「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
まとめ:今この瞬間も完全
パウロはピリピ人への手紙3章で、こう言っています:
「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。…それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ3:14-16)
「すでに達しているところを基準として」。
今、あなたが10点なら、その10点を感謝しましょう。 20点なら、その20点を感謝しましょう。
なぜなら、その段階はその段階として完全だからです。 そして、キリストにあって、あなたは既に満ち満ちているのですから。
完璧でなくても、本物でいい。 完成に向かって進む歩みこそが、神が喜ばれる歩みです。
あなたも私も、今この瞬間、キリストにあって完全なのです。
引用:新宿シャローム教会 富田ひさえ師の【マナメール】「キリストにあって満ち満ちて生きる」から
6年前にひざの手術をした時、ひさえ先生のマナメールを読んで励まされ、病室でこの聖書箇所を反芻したことを昨日の事の様に思い出します。このブログ記事では詳しく、note記事ではもっと初心者向きに書いてみました、別記事で図解もあります、宜しかったらこちらも見てください。




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