※本記事は以前に書きためていた原稿を、口語訳に整えて公開したものです。
1. 導入:ヨシュアは老いた、でも仕事は終わっていない
ヨシュア記13章は、意外なことばで始まります。
さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」。(ヨシュア記13章1節)
このことばには、何とも言えない現実感があります。
カナン征服の記録は12章で一区切りしました。三十一人の王を打ち破り、大きな戦いは終わりました。イスラエルは勝利を収めたのです。ヨシュアは疲れていたでしょう。「ああ、やっと終わった」と思ったかもしれません。
しかし、主は言われます。まだ終わっていない、と。
完璧を求める神様、不完全な現実
神様の視点と人間の視点は、しばしば違います。
- 人間の視点:「大きな戦いは終わった。十分やった」
- 神様の視点:「約束した地はすべて与えると言った。まだ残っている」
これは私たちの信仰生活でも同じではないでしょうか。
私たちは「この程度でいいだろう」と思います。でも神様は「わたしがあなたに与えると約束したものは、もっとある」と言われます。
ヨシュアは老いました。でも神様の約束は老いていません。
征服から分配へ:新しい段階
ここから始まるのは「土地の分配」です。イスラエルの十二部族それぞれが、どこに住むのか。神様が約束された土地を、実際に受け取る時が来たのです。
口語訳聖書は、この受け取る土地のことを一貫して「嗣業(しぎょう)」と訳しています。日常ではあまり使わないことばですが、これは大事な訳語です。
| 【原語のポイント】嗣業 = נַחֲלָה(ナハラー) 「嗣」は「受け継ぐ」、「業」は「財産・所有」。つまり嗣業とは、代々受け継がれていく分け前のことです。ヘブライ語のנַחֲלָה(ナハラー)も、動詞נָחַל(ナハル/受け継ぐ)から来たことばで、「自分の力で獲得したもの」ではなく「父から与えられ、子へ渡していくもの」を指します。 イスラエルにとってカナンの地は、戦利品ではありませんでした。父なる神から受け継ぐ、家族の分け前だったのです。だからこそ、後の時代にナボテは「先祖からの嗣業を売り渡すことはできません」と、王の申し出さえ断ったのです(列王紀上21章)。 |
この記事では、読みやすさのために「相続地」ということばも併用しますが、聖書本文はすべて「嗣業」です。
聖書を読んでいると、この13章から突然、細かい地名がたくさん出てきて「読みにくい」と感じるかもしれません。でも、これらの地名一つ一つに意味があります。
なぜなら、これは約束が現実になる瞬間だからです。
四百年以上前、神様はアブラハムに言われました。「わたしはこの地をあなたの子孫に与える」(創世記15章18節)と。それが今、実現しているのです。
征服と分配の違い
- 征服(1-12章):敵を打ち破り、土地を手に入れる → ヨシュアと全軍が行う
- 分配(13-21章):手に入れた土地を部族ごとに割り当てる → 各部族が自分の嗣業を受け取る
- 定住(その後):受け取った土地に実際に住み、残った敵を追い払う → 各部族が自分の責任で行う
重要なのは、完全に征服できていなくても、分配は始まるということです。
各部族は自分の嗣業を受け取り、そこに定住しながら、残された敵を自分たちで追い払っていくことになります。これは神様の信頼でもあり、テストでもありました。
では、地図を見てみましょう。この時点(ヨシュア記14章)で、約束の地がどのような状況だったのか、視覚的に理解できます。
【図解1】約束の地の分配状況(ヨシュア記14章時点)
約束の地の分配状況
ヨシュア記14章の時点
「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」(ヨシュア記13章1節)
凡例
- モーセが分け与えた嗣業(ヨルダン川の東側・三部族)
- 与えられていたのに追い払わなかった地(ゲシュル・マアカ/13章11節・13節)
- まだ取っていない地(13章2-6節)
- 主要拠点は征服ずみ。これから分け与え、定住していく地
- ヨシュアが征服した主な町
- カレブが受け取った特別な嗣業(ヘブロン)
地図のポイント
- ヨルダン川の東側:モーセが生前に三部族へ分け与えました。ガド族の北端は「キンネレテの湖の南の端」(13章27節)まで届いています。
- ゲシュルびと・マアカびと:13章11節では、この地はマナセの半部族に与えられた範囲に含まれています。ところが13節では「追い払わなかった」。手の届かない遠くの敵ではなく、自分の嗣業の中に居座らせた敵でした。
- 赤い斜線の地:主が「取るべき地は、なお多く残っている」と言われた場所。南はエジプトの東のシホルから、北はレバノンのゲバルまで。
- ヘブロン:八十五歳のカレブが、アナキびとのいる山地を自ら願い出て受け取った嗣業です。
2. モーセの働き:ヨルダン川の東側(13章8-33節)
土地の分配を語る前に、聖書はまず「すでに分配された土地」について振り返ります。それはヨルダン川の東側、モーセが生前に与えた土地です。
その前に、そもそも神様がモーセに示された「約束の地」の範囲を確認しておきましょう。
【図解2】神様がモーセに示された約束の地(民数記34章)
神様がモーセに示された約束の地
民数記34章:主が定められた四つの境
「あなたがたの国の周囲の境は以上のとおりである」(民数記34章12節)
民数記34章:主が定められた四つの境
南の境(3-5節)
エドムに接するチンの荒野に始まり、塩の海の端を東の起点として、アクラビムの坂の南、カデシ・バルネアの南、ハザル・アダル、アズモンを経て、エジプトの川に至り、海に及ぶ。
西の境(6節)
おおうみとその沿岸。
北の境(7-9節)
おおうみからホル山まで線を引き、ホル山からハマテの入口、ゼダデ、ジフロンに進み、ハザル・エノンに至って尽きる。
東の境(10-12節)
ハザル・エノンからシパム、リブラ、キンネレテの海の東の斜面に至り、ヨルダンに下って塩の海に至って尽きる。
アブラハムへの約束は、もっと広大でした
「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで」(創世記15章18節)
なぜ小さくなったのか? 三つの見解
- 段階的な実現:アブラハムの約束は究極的な約束、民数記34章は当面の目標。実際ダビデ・ソロモンの時代には、もっと広い範囲に勢力が及びました。
- 条件つきの拡大:「わたしは紅海からペリシテびとの海に至るまでと、荒野からユフラテ川に至るまでを、あなたの領域とし」(出エジプト記23章31節)。従順であれば、さらに広がるはずでした。
- 霊的な成就:究極的には、キリストの御国において全地が与えられます(マタイによる福音書5章5節)。
神様の約束は小さくなったのではありません。段階的に実現していく過程にあります。
民数記34章:神様が定められた境界
民数記34章で、主はカナンの地の四つの境界を、具体的な地名で示されました。
- 南の境界(34章3-5節):エドムに接するチンの荒野に始まり、塩の海(死海)の南端から、アクラビムの坂の南を巡ってチンに向かい、カデシ・バルネアの南、ハザル・アダル、アズモンを経て、エジプトの川に至り、海に及ぶ
- 西の境界(34章6節):おおうみ(地中海)とその沿岸
- 北の境界(34章7-9節):おおうみからホル山、ハマテの入口、ゼダデ、ジフロン、ハザル・エノンまで
- 東の境界(34章10-12節):ハザル・エノンからシパム、リブラ、キンネレテの海(ガリラヤ湖)の東の斜面、ヨルダン川に沿って塩の海(死海)まで
またその境はヨルダンに下り、塩の海に至って尽きる。あなたがたの国の周囲の境は以上のとおりである。(民数記34章12節)
アブラハムへの約束は、もっと広大でした
ところが、アブラハムに与えられた約束を読むと、範囲がまるで違います。
その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。(創世記15章18-21節)
エジプトの川から、大川ユフラテまで。現在のイラクを流れる大河までの、圧倒的な広さです。
ここで、日本語では見えない大事な違いがあります。
| 【原語のポイント】「エジプトの川」は二種類ある 創世記15章18節の「エジプトの川」は נְהַר מִצְרַיִם(ネハル・ミツライム)。נָהָר(ナハル)は「大河・恒常河川」を指すことばで、同じ節の「大川ユフラテ」にも使われています。 一方、民数記34章5節の「エジプトの川」は נַחַל מִצְרַיִם(ナハル・ミツライム)。こちらの נַחַל(ナハル)は「涸れ川(ワディ)」、つまり雨季にだけ水が流れる谷川です。 日本語ではどちらも「エジプトの川」ですが、原語はまったく別の単語です。一般に前者はナイル川、後者はシナイ半島北部のワディ・エル・アリシュを指すと考えられています。 つまり創世記の約束は、民数記の境界より南西にも大きく広がっていた、ということになります。同じ訳語の裏に、これだけの差があるのです。 |
なぜ小さくなったのか?三つの見解
では、アブラハムへの約束は縮んでしまったのでしょうか。三つの見方があります。
見解1:段階的な実現
- アブラハムの約束は「最終的・究極的」な約束
- モーセに示された境界は「当面の目標」
- 実際、ダビデ・ソロモン時代には、もっと広い範囲に勢力が及びました(サムエル記下8章、列王紀上4章21節)
見解2:条件付きの拡大
- 民数記34章は「最低限保証された範囲」
- 従順であれば、さらに広がる可能性があった
わたしは紅海からペリシテびとの海に至るまでと、荒野からユフラテ川に至るまでを、あなたの領域とし、この地に住んでいる者をあなたの手にわたすであろう。あなたは彼らをあなたの前から追い払うであろう。(出エジプト記23章31節)
この約束は、民数記34章の境界よりはるかに広いものです。神様の側の用意は、最初から大きかったのです。
見解3:霊的な成就
- 究極的には、キリストの御国において全地が与えられる(詩篇2篇8節、マタイによる福音書5章5節)
- 「地を受けつぐ」約束は、新しい天と新しい地で完全に実現する(ヨハネの黙示録21-22章)
結論として、神様の約束は決して小さくなったのではなく、段階的に実現していく過程にあります。民数記34章の境界は当面の目標であり、最終的にはもっと大きな祝福が待っています。
なぜヨルダン川の東側が先に分配されたのか?
これには興味深い背景があります。
時は遡ること、イスラエルがヨルダン川を渡る直前のこと(民数記32章)。ルベンの子孫とガドの子孫がモーセのところにやって来ました。彼らは非常に多くの家畜の群れを持っていて、ヤゼルとギレアデの地が牧畜に適していることに目を留めたのです。
「どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください」(民数記32章5節)。
一見すると、これは理にかなった願いに聞こえます。良い牧草地がある。家畜もたくさんいる。ならばここに住もう、と。
しかしモーセの反応は厳しいものでした。
モーセはガドの子孫とルベンの子孫とに言った、「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか」。(民数記32章6-7節)
モーセは思い出していたのです。四十年前、イスラエルの民が約束の地を目前にして、恐れて引き返したことを。その時、民の心をくじいた者たちのせいで、一世代が荒野で死ぬことになりました。
同じことを繰り返してはならない。
条件付きの許可
ルベンの子孫とガドの子孫は答えました。
しかし、われわれは武装してイスラエルの人々の前に進み、彼らをその所へ導いて行きましょう。ただわれわれの子供たちは、この地の住民の害をのがれるため、堅固な町々に住ませておかなければなりません。われわれはイスラエルの人々が、おのおのその嗣業を受けるまでは、家に帰りません。(民数記32章17-18節)
この約束を聞いて、モーセは許可しました。条件は明確でした。
- 他の部族と一緒にヨルダン川を渡る
- カナンの地で戦う
- 戦いが完全に終わるまで帰らない
- その後、ヨルダン川の東側に戻って住んでよい
つまり、彼らは二重の働きをしたのです。自分たちの土地は早めに受け取る。それでも兄弟たちの戦いに最後まで参加する。
これは真の兄弟愛の姿です。自分だけが祝福を受けて満足するのではなく、兄弟が祝福を受けるまで共に戦う。
実際、ヨシュア記22章を見ると、彼らは約束を守り通しました。すべての戦いが終わった後、ヨシュアは彼らを祝福して東側に帰しました。
では、三つの部族が受け取った土地を詳しく見ていきましょう。
A. ルベン族の嗣業(13章15-23節)
場所:アルノンの谷のほとりにあるアロエルから、メデバのほとりの高原一帯(死海の東側)
主な町:ヘシボン、デボン、バモテ・バアル、ベテ・バアル・メオン、キリアタイムなど
ルベンはヤコブの長男でした(創世記29章32節)。しかし父の側女と寝たため、長子の権利を失いました(創世記49章3-4節)。それでも神様は彼らに嗣業を与えてくださいました。これは恵みです。
ここはかつて、ヘシボンで世を治めたアモリびとの王シホンが支配していた地域です。
シホンは強力な王でした。イスラエルが「あなたの国を通らせてください」と平和的に願い出たとき、シホンは拒否し、軍を率いてイスラエルを攻撃してきました(民数記21章21-24節)。
しかし主がイスラエルと共におられたので、シホンは打ち破られました。これはモーセ時代の最初の大きな軍事的勝利でした。
この勝利は、イスラエルの民に大きな励ましを与えました。「神様が共におられるなら、強大な敵にも勝てる」と。
ルベン族が受け取ったこの地は、最初の勝利の地だったのです。
B. ガド族の嗣業(13章24-28節)
場所:ルベン族の北、ギレアデ地方
主な町:ヤゼル、ラマテ・ミゾパ、マハナイム、そしてヨルダンの谷にあるベテハラム、ベテニムラ、スコテ、ザポン
北の端は「キンネレテの湖の南の端」(13章27節)、つまりガリラヤ湖のすぐ南まで届いていました。ヨルダン川の東岸を、南北に細長く占めていたことになります。
ガド族の地域は、イスラエルの歴史の中で何度も重要な場所として登場します。
マハナイムという町に注目してください。この町の名前は「二つの陣営」という意味です。
なぜこの名前がついたのか。それはヤコブが、兄エサウから逃れて叔父ラバンのもとで二十年間働いた後、故郷に帰る途中でここを通ったときのことです(創世記32章1-2節)。
ヤコブがこの場所に来たとき、神の使たちが彼に会いました。ヤコブはそこを「神の陣営」と呼び、その場所をマハナイムと名づけたのです。
- 一つの陣営:ヤコブと彼の家族
- もう一つの陣営:神の使たち
神様はヤコブを見捨てていませんでした。目には見えなくても、天の軍勢が彼を守っていたのです。
そしてヤコブはその夜、ペニエル(マハナイムの近く)で神と組み打ちをし、「イスラエル」という新しい名前を受けました。
ガド族の地は、こうした神様との出会いの記憶が刻まれた場所でした。
後の時代、ダビデが息子アブサロムの反乱から逃げる時も、このマハナイムに避難します(サムエル記下17章24節)。試練の時に神様が守ってくださる場所として、マハナイムは記憶されていたのです。
C. マナセ半部族の嗣業(13章29-31節)
場所:ギレアデの半ば、バシャン全土(現在のゴラン高原のあたり)
主な町:アシタロテ、エデレイ、そして「バシャンにあるヤイルのすべての町々、すなわちその六十の町」(13章30節)
特徴:肥沃な高原、牛の放牧に適した地
マナセ族は特別な部族でした。ヨセフの子の名を受け継ぐ部族で、ヨセフの祝福を半分ずつ、兄弟のエフライムと分け合いました。
だからマナセ族は「半部族」が二つ存在します。
- 東側の半部族:ヨルダン川の東、バシャン地方
- 西側の半部族:ヨルダン川の西、後で嗣業を受け取る(17章)
ここには重要な記述があります。
アシタロテとエデレイで世を治めたバシャンの王オグの全国。オグはレパイムの生き残りであった。モーセはこれらを撃って、追い払った。(ヨシュア記13章12節)
レパイムとは何者でしょうか?
レパイムは巨人族です。その出どころをたどると、創世記6章にゆきあたります。
そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。(創世記6章4節)
「神の子たち」が何者であるかについては、天使的存在と見る立場と、セツの家系の人間と見る立場があり、決着はついていません。ここでは断定を避けます。
しかし、見逃してはならない一句があります。
「そのころ、またその後にも」。
洪水の前だけではない、ということです。創世記6章の記者は、この巨人的な存在が一度きりの出来事ではなかったことを、あらかじめ書きとめているのです。
だからこそ、洪水から何百年も後のカナンの地に、アナクの子孫がいて、レパイムがいて、バシャンの王オグがいるのです。聖書は矛盾していません。最初から「その後にも」と言っていました。
| 【原語のポイント】ネピリムとレパイム ネピリム נְפִילִים(ネフィリーム)は、動詞 נָפַל(ナファル/落ちる、倒れる、襲いかかる)と結びつけて理解されるのが一般的です。「落ちた者たち」とも「(人に)襲いかかる者たち」とも読めることばです。 一方レパイム רְפָאִים(レファイーム)には、もう一つの顔があります。旧約聖書では、この同じ語が「死者の霊・亡霊」を指す語としても使われるのです(イザヤ書14章9節、詩篇88篇10節など。口語訳では「亡霊」「死人」と訳されています)。 巨人族の名と、陰府にくだった者たちの名が、同じ語である。これは偶然ではないのかもしれません。地上で最も恐れられた者たちの名が、そのまま「もはや力を失って横たわる者たち」を意味することばでもあった——聖書のことばの選び方には、静かな皮肉が込められているようです。 イスラエルが恐れたレパイムは、主の前では、すでに名前からして「倒れる者」だったのです。 |
彼らはカナンの地、特にバシャン地方に住んでいました。
オグ王はどれほど大きかったのか?
申命記3章11節には驚くべき記述があります。
(バシャンの王オグはレパイムのただひとりの生存者であった。彼の寝台は鉄の寝台であった。これは今なおアンモンびとのラバにあるではないか。これは普通のキュビト尺で、長さ九キュビト、幅四キュビトである。)(申命記3章11節)
九キュビトは約四メートル。これは普通のベッドではありません。
四十五年前、イスラエルが十二人の斥候をカナンに送った時、十人が「無理だ」と言った理由の一つが、この巨人たちでした。
わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません。(民数記13章33節)
しかし、神様が共におられるなら、巨人も恐れるに足りません。
モーセは主の力によって、この恐るべきオグ王を打ち破りました。申命記3章を読むと、この戦いがどれほど重要だったかが分かります。イスラエルはバシャンの町々を、一つ残らず占領しました。
マナセ半部族が受け取ったこの地は、人間には不可能に見えた勝利の地だったのです。
D. レビ族は土地を受け取らなかった(13章14節、33節)
さて、土地の分配の話をしていて、一つの部族だけ何度も「土地をもらわなかった」と繰り返されます。レビ族です。
13章には二度、よく似たことばが繰り返されます。ところが口語訳で並べて読むと、この二つが微妙に違うことに気づきます。
ただレビの部族には、ヨシュアはなんの嗣業をも与えなかった。イスラエルの神、主の火祭が彼らの嗣業であるからである。主がヨシュアに言われたとおりである。(ヨシュア記13章14節)
ただし、レビの部族には、モーセはなんの嗣業をも与えなかった。イスラエルの神、主がその嗣業だからである。主がモーセに言われたとおりである。(ヨシュア記13章33節)
14節は「主の火祭が彼らの嗣業」。33節は「主がその嗣業」。
この違いは、うっかり読み飛ばしてしまうところですが、実はとても大切です。
- 生活の糧という意味では、主にささげられる火祭(ささげ物)が、彼らの分け前
- しかし究極的には、主ご自身が、彼らの嗣業
二重の意味が、二つの節に分けて記されているのです。
レビ族は祭司の部族でした。彼らの仕事は、幕屋で仕えること、いけにえをささげること、民に律法を教えること、神様と民の間を取り持つことでした。
他の部族が農業や牧畜で生計を立てる一方、レビ族は神様に仕えることが仕事でした。
では、彼らはどうやって生活したのでしょうか。民が神様にささげる十分の一とささげ物によって支えられました(民数記18章20-24節)。つまり、他の十一部族が豊かに祝福され、神様に感謝してささげることで、レビ族も祝福されるという仕組みです。
これは美しい相互依存の関係です。レビ族は他の部族のために神様に仕える。他の部族はレビ族を支え、神様を礼拝する。
そして神様はアロンに言われました。
あなたはイスラエルの人々の地のうちに、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはならない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。(民数記18章20節)
レビ族の嗣業は、土地ではなく、神様ご自身でした。
これは深い真理を示しています。
物質的な祝福は素晴らしいものです。土地、家、財産。それらは神様からの贈り物です。しかし、最高の嗣業は、神様ご自身との関係なのです。
詩篇16篇5節でダビデは歌います。
主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。(詩篇16篇5節)
ダビデは王でした。土地も富もありました。しかし彼の最大の宝は、主ご自身でした。しかもダビデは、レビ族ではありません。ユダ族の人間です。土地を持っている者が、なお「主こそわたしの嗣業」と歌ったのです。
私たちも同じです。神様が私たちに与えてくださる祝福は数多くあります。しかし、すべての祝福の源は、神様ご自身との関係なのです。
レビ族の「土地をもらわなかった」という記述は、損失ではありません。それは最高の特権だったのです。
3. ヨシュアの働き:ヨルダン川の西側
モーセの死後、ヨシュアがイスラエルの指導者となりました。彼は重い責任を負っていました。モーセという偉大な指導者の後を継ぐこと。そして、約束の地に民を導き入れること。
主はヨシュアに言われました。
わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。(ヨシュア記1章2節)
そして主は約束されました。
あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。(ヨシュア記1章5節)
この約束を胸に、ヨシュアはヨルダン川を渡り、カナンの地に入りました。
征服の始まり:不可能を可能にする神様
ヨシュアが最初に直面したのは、エリコの城壁でした。
エリコは要塞都市でした。高い城壁に囲まれ、門は固く閉ざされていました。普通に考えれば、攻略には長い時間と多くの犠牲が必要だったでしょう。
しかし神様の戦い方は違いました。
あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。(ヨシュア記6章3-4節)
軍事作戦としては、意味不明です。でもイスラエルは従いました。
七日目、七回目の周回、祭司たちがラッパを吹き鳴らし、民がときの声をあげたとき、城壁は崩れ落ちました(6章20節)。
この出来事は、イスラエルに大切な教訓を教えました。神様が共におられるなら、人間の常識や軍事力を超えた方法で、勝利を与えてくださる、ということです。
主な征服の記録(ヨシュア記1-12章)
エリコの後、ヨシュアとイスラエルはカナンの地を征服していきました。
エリコ(6章):壁が崩れ落ちた奇跡の町。神様の力による最初の大勝利。
アイ(7-8章):最初の試みは失敗しました。なぜか。アカンという人が、主に奉納すべき物を盗んでいたからです。罪が宿営にありました。罪を取り除いた後、イスラエルはアイを攻略しました。ここから学ぶのは、罪は神様の祝福を妨げるということです。
ギベオン(9章):ギベオンの人々はイスラエルを恐れて、遠い国から来たと偽り、和親の約束を結ばせました。ヨシュアは主に尋ねることなく、彼らと誓ってしまいました。後で偽りが発覚しましたが、誓いは破れませんでした。これは教訓です。重要な決断をする前に、主に尋ねなければならない。
南部の諸王(10章):ギベオンを攻撃しようとする五人の王たちの連合軍を、ヨシュアは打ち破りました。この戦いで有名なのが、太陽が止まった日です。
日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ。(ヨシュア記10章12節)
民がその敵を撃ち破るまで、日はとどまり、月は動かなかった。(ヨシュア記10章13節)
続く13節後半は、この出来事がヤシャルの書にも記されていること、そして日が中空にとどまってすぐには沈まなかったことを伝えています。
これは聖書で最も不思議な出来事の一つです。神様は自然の法則さえも支配しておられます。なぜこんなことをされたのか。イスラエルが完全な勝利を収めるためでした。
北部の諸王(11章):ハゾルの王ヤビンを中心とした北部の連合軍も、ヨシュアは打ち破りました。
主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。(ヨシュア記11章15節)
三十一人の王のリスト
12章には、印象的なリストがあります。ヨシュアとイスラエルが打ち破った王たちの名前です。
エリコの王ひとり。ベテルのほとりのアイの王ひとり。エルサレムの王ひとり。ヘブロンの王ひとり。ヤルムテの王ひとり。ラキシの王ひとり。(ヨシュア記12章9-11節)
このように名前が並び、合計で三十一人の王になります。
このリストは、ただの歴史記録ではありません。これは勝利の記念碑です。
一つ一つの名前が、神様が共におられた証拠です。一つ一つの町が、約束が実現していく過程です。
想像してみてください。イスラエルの親たちが子どもたちに、このリストを読んで聞かせる場面を。
「エリコの王? ああ、城壁が崩れ落ちたあの町だ」
「アイの王? 最初は失敗したけど、罪を取り除いたら勝てたんだ」
「ギベオンの王? そこで太陽が止まったんだよ」
一つ一つに、神様の奇跡と恵みの物語があるのです。
「点の征服」という現実
しかし、正直に言えば、これらの勝利は「点の征服」でした。
主要な町々と王たちは倒しました。大きな戦いには勝ちました。しかし、地域全体を完全に支配したわけではありません。
町と町の間には、まだ征服されていない地域がありました。山地や森、小さな村々には、まだカナンびとが住んでいました。
13章1節で主が「取るべき地は、なお多く残っている」と言われたのは、この現実を指しています。
でも、これは失敗ではありません。これは神様の計画でした。
出エジプト記23章29-30節で、主はすでに言っておられました。
しかし、わたしは彼らを一年のうちには、あなたの前から追い払わないであろう。土地が荒れすたれ、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払うであろう。あなたは、ついにふえひろがって、この地を継ぐようになるであろう。(出エジプト記23章29-30節)
段階的な征服。これが神様の方法でした。
なぜでしょうか。
- 土地が荒れないため:すべての住民を一度に追い払うと、農地が荒れ、野の獣が増える
- イスラエルが成長するため:各部族が自分の嗣業で、信仰と勇気を持って戦う必要がある
- 信仰の訓練:常に神様に依り頼む必要を学ぶため
主要拠点を征服した今、これから始まるのは定住と完全征服の段階です。
各部族は自分の嗣業を受け取り、そこに住みながら、残った敵を追い払っていきます。
これは神様の信頼の証でもあり、同時にテストでもありました。あなたがたは、わたしに信頼し続けるか、と。
4. まだ残っている地:神様の「やることリスト」(13章2-6節)
さて、ヨシュアは老いました。大きな戦いは終わりました。疲れていたでしょう。「これで休めるかな」と思ったかもしれません。
しかし主は言われます。「取るべき地は、なお多く残っている」と。
そして主は、具体的にリストアップされます。どこが残っているのか。
その残っている地は、次のとおりである。ペリシテびとの全地域、ゲシュルびとの全土、エジプトの東のシホルから北にのびて、カナンびとに属するといわれるエクロンの境までの地、ペリシテびとの五人の君たちの地、すなわち、ガザ、アシドド、アシケロン、ガテ、およびエクロン。(ヨシュア記13章2-3節)
A. ペリシテびとの五人の君たちの地(13章2-3節)
五つの町:ガザ、アシドド、アシケロン、ガテ、エクロン
これらの町は、地中海沿岸の南部、現在のガザ地区のあたりにありました。13章3節はその南の起点を「エジプトの東のシホル」と記しています。シホルはエジプトとの境にある水系を指すことばで、つまり主は、エジプトとの国境から北のエクロンまで、沿岸地帯がまるごと残っている、と言われたのです。
ペリシテびとは、カナンびととは別の民族でした。彼らは海洋民族で、エーゲ海方面から移住してきたと考えられています。彼らは鉄器の技術を持っており、軍事的に強力でした。
ヨシュアの時代には、この地域を征服できませんでした。そして後の歴史で、ペリシテびとはイスラエルの大きな脅威となります。
サムソンの時代(士師記13-16章):サムソンはペリシテびとと戦いました。そして最後、ガザの神殿で、柱を倒して多くのペリシテびとと共に死にました。
サウル王の時代(サムエル記上):ペリシテびととの戦いは激化しました。イスラエルは神の箱を戦いに持ち出しましたが、負けてしまい、箱は奪われました(4章)。
ダビデの時代(サムエル記上17章):あの有名なゴリアテが登場するのが、この時です。
ゴリアテはガテの出身でした。身長は六キュビト半、約三メートル。完全武装した巨人戦士。イスラエルの全軍が恐れをなしました。
しかし、少年ダビデは言いました。
おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。(サムエル記上17章45節)
そしてダビデは石投げで、ゴリアテを倒しました。
ペリシテの問題は、ダビデが王になった後、ようやく解決に向かいます(サムエル記下5章、8章)。
つまり、ヨシュアの時代から数百年かかって、ようやく完全に征服されたのです。
なぜ神様は、ヨシュアの時代に征服させなかったのでしょうか。
一つの理由は、イスラエルがまだ準備できていなかったからかもしれません。ペリシテびとは鉄器を持ち、組織化された軍隊を持っていました。段階的に力をつける必要がありました。
しかし、もっと深い理由があります。神様は、イスラエルが何世代にもわたって、主に信頼し続けることを望んでおられたのです。
一度にすべてを与えられたら、人は神様を忘れてしまうかもしれません。しかし、常に課題が残されているなら、常に神様に依り頼む必要があります。
B. シドンびとの地とレバノン地域(13章4-6節)
場所:イスラエルのずっと北、現在のレバノンのあたり
主な都市:シドン(地中海沿岸の港町)、ゲバル
範囲:シドンびとに属するメアラからアモリびとの境にあるアペクまで、ヘルモン山のふもとのバアルガデからハマテの入口に至るゲバルびとの地、レバノンの東の全土、そしてレバノンからミスレポテ・マイムまでの山地(13章4-6節)
特徴:レバノン杉で有名な山地、ヘルモン山
この地域は、美しく豊かな土地でした。
レバノン杉は、古代世界で最高級の建築材料でした。高く、まっすぐに育ち、良い香りがし、腐りにくい。
後の時代、ソロモン王が神殿を建てる時、このレバノン杉を大量に輸入しました(列王紀上5章)。ツロの王ヒラムと契約を結び、木材を海路で運んでもらったのです。
ここで挙げられている「ゲバル」は、地中海沿岸の港町、後にギリシャ人がビブロスと呼んだ町です。ゲバルびとは石を切り出し、加工する高い技術を持っていました。実際、ソロモンの神殿建築では、ツロの人々と共にゲバルの人々が石工として働いています(列王紀上5章18節)。
つまり、ヨシュアの時代に「まだ取っていない地」として名指しされた民が、数百年後には神殿を建てる働き手として登場するのです。神様の時間の使い方は、私たちの想像を超えています。
シドンは商業で栄えた町でした。フェニキヤ人の都市で、海上貿易で富を築きました。彼らは優れた船乗りで、地中海全域に植民地を作りました。
しかし、シドンには大きな問題がありました。偶像礼拝の中心地だったのです。
特に有名だったのが、バアルとアシタロテの礼拝です。これらの偶像礼拝には、性的不道徳や幼児犠牲などの忌まわしい行為が伴いました。
後の時代、イスラエルの王アハブが、シドンの王女イゼベルと結婚します(列王紀上16章31節)。これは大失敗でした。
イゼベルはイスラエルにバアル礼拝を持ち込み、主の預言者たちを殺し、イスラエルの信仰を根底から揺るがしました。
預言者エリヤが立ち上がり、カルメル山でバアルの預言者四百五十人と対決したのは、この時代です(列王紀上18章)。
もしヨシュアの時代にシドンを征服していたら、この問題は起きなかったでしょうか。
いいえ、問題は征服されているかどうかではなく、イスラエルが主に忠実であり続けるかどうかでした。
後の歴史を見ると、イスラエルは征服した地のカナンびとからも、偶像礼拝の影響を受けました。問題は外にあるだけでなく、心の中の不従順にあったのです。
C. その他の残された地域
13章2-6節を詳しく見ると、他にも残された地域があります。
- ゲシュルびととマアカびとの領地(北東部、現在のゴラン高原あたり)
- 南のアビびとの地
- カナンびとの全地(各地に散在)
ここで、見落としてはならないことがあります。
13章11節を読むと、モーセがマナセ半部族に分け与えた範囲の中に、はっきり「ゲシュルびと、ならびにマアカびとの領地」が含まれているのです。
つまりこの二つの民は、まだ手の届かない遠くの敵ではありませんでした。すでに自分の嗣業として与えられていた土地に、そのまま居座らせておいた敵だったのです。
そして13章13節には、印象的な記述があります。
ただし、イスラエルの人々は、ゲシュルびとと、マアカびとを追い払わなかった。ゲシュルびとと、マアカびとは、今日までイスラエルのうちに住んでいる。(ヨシュア記13章13節)
「追い払わなかった」。そして「今日までイスラエルのうちに住んでいる」。
これは、追い払えなかったのか、それとも追い払おうとしなかったのか。
11節と13節を並べて読むと、聖書自身が答えを出しています。与えられていたのに、取らなかったのです。
しかも「今日まで」ということばが重い。妥協は、その世代だけで終わりません。次の世代、そのまた次の世代にまで、そのまま引き継がれていきます。
士師記を読むと、多くの場合、イスラエルは「追い払おうとしなかった」ことが分かります。
またエフライムはゲゼルに住んでいたカナンびとを追い出さなかったので、カナンびとはゲゼルにおいて彼らのうちに住んでいた。(士師記1章29節)
アセルはアッコの住民およびシドン、アヘラブ、アクジブ、ヘルバ、アピク、レホブの住民を追い出さなかったので、アセルびとは、その地の住民であるカナンびとのうちに住んでいた。彼らが追い出さなかったからである。(士師記1章31-32節)
なぜ追い出さなかったのでしょうか。いくつかの理由が考えられます。
- 妥協:戦うのが面倒だった。平和に共存すればいい、と思った
- 経済的理由:カナンびとを強制労働に服させれば、便利だ(士師記1章28節)
- 油断:大きな戦いは終わった。もう安全だろう
しかし、この妥協が後に大きな問題を引き起こします。
なぜ残された地があるのか? 三つの視点
残された地について、三つの視点から考えることができます。
1. 神様の主権的計画の視点
出エジプト記23章29-30節で見たとおり、段階的な征服は神様の計画でした。理由は、土地が荒れないため、イスラエルが人口的に増えて土地を管理できるようになるまで、そして各世代が信仰によって戦う訓練を受けるためです。
2. イスラエルの不従順の視点
士師記2章1-3節で、主の使は言います。
わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、「わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない」と。しかし、あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、「わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう」と。(士師記2章1-3節)
不完全な征服には、イスラエルの責任もありました。
3. 信仰の試練の視点
すべてカナンのもろもろの戦争を知らないイスラエルの人々を試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおりである。これはただイスラエルの代々の子孫、特にまだ戦争を知らないものに、それを教え知らせるためである。(士師記3章1-2節)
これらをもってイスラエルを試み、主がモーセによって先祖たちに命じられた命令に、彼らが従うかどうかを知ろうとされたのである。(士師記3章4節)
残された敵は、信仰の試験問題でした。
完璧な環境では、信仰は成長しません。困難があるからこそ、神様により頼むことを学びます。
現代の私たちへの適用
私たちの人生にも「まだ残っている地」があります。
- まだ克服できていない罪の領域
- まだ解決していない問題
- まだ癒されていない傷
- まだ達成していない目標
なぜ神様は、一度にすべてを解決してくださらないのでしょうか。
一つの理由は、神様は私たちの成長を望んでおられるからです。
すべてが完璧に解決されたら、私たちは神様を必要としなくなるかもしれません。しかし、課題が残されているなら、私たちは毎日、神様に依り頼むことを学びます。
パウロは言いました。
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(コリント人への第二の手紙12章9節)
私たちの「残された地」は、神様の力が現れる場所なのです。
もう一つの理由は、私たちの選択が重要だからです。
神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。私たちが主に信頼して従うことを選ぶのか、それとも妥協して楽な道を選ぶのか。
イスラエルには選択がありました。残された敵を追い払うこともできたし、妥協して共存することもできました。
私たちにも毎日、選択があります。主に信頼して「残された地」に立ち向かうのか、それとも妥協するのか。
あなたの人生の「まだ征服されていない地」は何ですか。
神様は言われます。わたしがあなたと共にいる、恐れるな、と。
5. カレブの特別な嗣業:ヘブロン(14章6-15節)
14章には、聖書の中でも最も感動的なストーリーの一つが記録されています。八十五歳の老戦士カレブの、揺るがない信仰の物語です。
四十五年前:十人の不信仰と二人の信仰
時は遡ること四十五年前。
イスラエルがエジプトを出て二年目のこと。彼らはカナンの地を目前にしていました。シナイ山で律法を受け、幕屋を建て、神様の臨在と共に旅してきました。
そして今、約束の地に入る時が来ました。
モーセは十二人の斥候を送りました。各部族から一人ずつ。彼らの任務は、その地を探って報告することでした(民数記13章)。
四十日後、彼らは戻ってきました。
手には、ぶどうの大きな一ふさを二人で棒にかついで持ち帰りました(民数記13章23節)。それを見て、民は驚きました。「なんて豊かな土地なんだ」と。
しかし、斥候の報告は二つに分かれました。
十人の報告:
わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。(民数記13章27-28節)
わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません。(民数記13章33節)
彼らの報告は、技術的には正確でした。確かに敵は強かった。確かに城壁は高かった。確かに巨人がいました。
しかし、彼らは最も重要なことを見落としていました。神様が共におられる、ということを。
カレブとヨシュアの報告:
そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。(民数記13章30節)
わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません。(民数記14章7-9節)
民の選択:不信仰
どちらの報告を信じるか。民は選択しなければなりませんでした。
神様を信じて前進するか、恐れて引き返すか。
民は選びました。十人の報告を信じることを。
ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。(民数記14章10節)
彼らはヨシュアとカレブを殺そうとしたのです。信仰を語る者を。
その時、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れました。
この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか。(民数記14章11節)
神様は怒られました。当然です。
エジプトで十の災害を見た。紅海が分かれるのを見た。荒野でマナを食べ、岩から水が出るのを見た。シナイ山で神様の臨在を体験した。
それなのに、まだ信じないのか。
主は言われました。
わたしにむかってつぶやくこの悪い会衆をいつまで忍ぶことができようか。……あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、わたしがかつて、あなたがたを住まわせようと、手をあげて誓った地に、はいることができないであろう。(民数記14章27-30節)
そして主は宣言されました。
あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう。(民数記14章34節)
四十年間、荒野をさまよう。その世代は、約束の地に入ることができない。
ただし、ヨシュアとカレブは別。
カレブへの約束
主はカレブについて、こう言われました。
ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。(民数記14章24節)
さらにモーセも、後にこう語っています。
ただエフンネの子カレブだけはそれを見ることができるであろう。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えるであろう。彼が全く主に従ったからである。(申命記1章36節)
カレブは、約束を受け取りました。
しかしその約束が実現するまで、四十五年間待たなければなりませんでした。
四十年間、荒野をさまよい、不信仰だった世代が死ぬのを見ました。友人たちが、家族が、同世代の人々が、次々と荒野で死んでいくのを見ました。
それでもカレブは信じ続けました。「主は約束してくださった。必ず実現する」と。
八十五歳、それでも健やか
四十五年が経ちました。カレブは今、八十五歳です。
ヨシュアのところにやって来たカレブは、言いました。
主がカデシ・バルネアで、あなたとわたしとについて、神の人モーセに言われたことを、あなたはごぞんじです。主のしもべモーセが、この地を探るために、わたしをカデシ・バルネアからつかわした時、わたしは四十歳でした。そしてわたしは、自分の信ずるところを復命しました。(ヨシュア記14章6-7節)
カレブは覚えていました。あの日のことを。四十歳の時のことを。
しかし、共に上って行った兄弟たちは、民の心をくじいてしまいましたが、わたしは全くわが神、主に従いました。(ヨシュア記14章8節)
「全く従いました」。
これがカレブの人生を要約することばです。
| 【原語のポイント】「全く従った」 口語訳が「全く……従った」と訳しているヘブライ語は מִלֵּא אַחֲרֵי יְהוָה(ミッレー・アハレー・アドナイ)。直訳すると「主のうしろに従うことを、満たした」となります。 動詞 מָלֵא(マレー)は「満たす・成就する」。器を縁までなみなみと満たすときに使う語です。つまり「主についていく」ということを、余白なく、こぼさず、いっぱいに満たした——それがカレブの生き方でした。 少しだけ従うのでもなく、途中まで従うのでもない。四十五年という長い年月を、隙間なく従い切ったのです。この表現は、聖書の中でカレブ(とヨシュア)にほぼ限定して使われます。 |
四十五年間、変わらず、主に従い切りました。
主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、(ヨシュア記14章10節)
八十五歳。普通なら引退する年齢です。孫の世話をして、静かに余生を過ごす年齢です。
しかしカレブは言いました。
今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。(ヨシュア記14章11節)
なんという宣言でしょう。
八十五歳で「四十歳の時と同じように力がある」と言えるでしょうか。
これは単なる肉体的な強さではありません。これは信仰の力です。
主に信頼し続ける者を、主は強くしてくださいます。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。(イザヤ書40章31節)
最も困難な場所を求める
そしてカレブは、驚くべき願いをします。
それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキびとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう。(ヨシュア記14章12節)
「この山地」。
カレブが求めたのは、ヘブロンとその周辺の山地でした。
そして、そこにはアナキびとがいました。
アナキびと。四十五年前に、十人の斥候が恐れをなした巨人族です。「自分がいなごのように思われた」と言った、あの巨人たちです。
普通なら、こう言うでしょう。「主よ、私は八十五歳です。もう十分に戦いました。どうか、平和な土地をください。巨人のいない、静かな場所を」。
しかしカレブは違いました。彼は最も困難な場所を求めたのです。
なぜでしょうか。
カレブの心:三つの動機
1. 神様への信頼
「しかし、主がわたしと共におられて」。これがすべての理由です。
カレブにとって、戦いの勝敗を決めるのは、敵の大きさではありませんでした。神様が共におられるかどうか、でした。
神様が共におられるなら、巨人も恐れるに足りません。
2. 約束の完全な実現への情熱
四十五年前、カレブは言いました。「わたしたちは必ず勝つことができます」と。
しかし民は信じませんでした。
今、カレブは証明したいのです。あの時、私が言ったことは正しかった、と。
神様を信じれば、巨人にも勝てる。それを自分自身で示したかったのです。
3. 次の世代への模範
カレブの周りには、若い世代がいました。荒野で生まれ育った世代。彼らもこれから、自分の嗣業で戦わなければなりません。
カレブは示したかったのです。年齢は関係ない。神様が共におられるなら、どんな敵にも立ち向かえる、と。
カレブの姿を見て、若者たちは励まされたでしょう。「あのおじいさんが巨人と戦うなら、僕たちもできる」と。
ヨシュアの祝福
ヨシュアは、この願いを聞いて、どう思ったでしょうか。
彼もまた、四十五年前、カレブと共に立った人です。二人だけが「できる」と言いました。二人だけが、約束の地に入ることを許されました。
ヨシュアは、カレブの信仰を知っていました。四十五年間、彼と共に戦ってきました。
そこでヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた。こうしてヘブロンは、ケニズびとエフンネの子カレブの嗣業となって、今日に至っている。彼が全くイスラエルの神、主に従ったからである。(ヨシュア記14章13-14節)
「全く……主に従った」。
再び、このことばが出てきます。
これがカレブの人生の評価です。これが彼が嗣業を受けた理由です。
そしてもう一つ、見落としてはならない一語があります。
| 【原語のポイント】「ケニズびと」カレブ 口語訳は14章6節と14節で、カレブを「ケニズびとエフンネの子カレブ」と呼びます。ケニズ(קְנַז ケナズ)は、創世記36章に出てくるエサウの子孫、つまり本来はエドム系の氏族の名です。 つまりカレブは、血筋をたどればイスラエルの外から来た家系だった可能性が高いのです。それでも彼はユダ族に数えられ(民数記13章6節)、十二人の斥候の一人に選ばれ、そして約束の地の中で最も難しい山地を嗣業として受け取りました。 外から来た者が、最も深く信じた。そして最も困難な場所を求め、最も確かな嗣業を得た。 これは、後に異邦人が信仰によってアブラハムの子とされることの、静かな予告のようです(ガラテヤ人への手紙3章29節)。 |
ヘブロンの意味
ヘブロンは、特別な場所でした。
ヘブロンの名は、もとはキリアテ・アルバといった。アルバは、アナキびとのうちの、最も大いなる人であった。こうしてこの地に戦争はやんだ。(ヨシュア記14章15節)
キリアテ・アルバ、すなわち「アルバの町」。アルバはアナキびとの中の最も偉大な人物でした。
つまり、巨人の中の巨人、最強の巨人の本拠地だったのです。
そしてヘブロンは、イスラエルの歴史で何度も重要な場所として登場します。
アブラハムの時代(創世記13章18節):アブラハムはヘブロンに住み、そこで主に祭壇を築きました。
サラの埋葬(創世記23章):アブラハムはヘブロンのマクペラのほら穴を買い、そこに妻サラを葬りました。後にアブラハム自身も、イサクもリベカも、ヤコブもレアも、そこに葬られました。
ダビデの都(サムエル記下2章):ダビデが最初に王となったのは、ヘブロンでした。七年半、彼はそこで王として治めました。
カレブが受け取ったヘブロンは、単なる町ではありません。それは信仰の父祖たちの足跡が刻まれた、聖なる場所でした。
カレブの勝利
ヨシュア記15章13-14節を見ると、カレブが実際にアナクの子孫を追い払ったことが記録されています。
ヨシュアは、主に命じられたように、エフンネの子カレブに、ユダの人々のうちで、キリアテ・アルバ、すなわちヘブロンを与えて、その分とさせた。アルバはアナクの父であった。カレブはその所から、アナクの子三人を追い払った。すなわち、セシャイ、アヒマン、およびタルマイであって、アナクから出たものである。(ヨシュア記15章13-14節)
八十五歳のカレブは、本当に巨人と戦い、そして勝ちました。
約束は実現したのです。
カレブの信仰から学ぶこと:七つの教訓
1. 神様への従順は必ず報われる
四十五年待ちましたが、約束は実現しました。神様は決して忘れません。
神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。(ヘブル人への手紙6章10節)
2. 長い待ち時間も、信仰の訓練
四十五年間は無駄ではありませんでした。その間、カレブの信仰は試され、練られ、強くされました。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(コリント人への第一の手紙10章13節)
3. 年齢は信仰の障害にならない
八十五歳でも、神様は用いてくださいます。むしろ、長年の信仰の歩みが、大きな力となります。
モーセは八十歳で召命を受けました。アブラハムは百歳で子イサクを得ました。神様にとって、年齢は問題ではありません。
4. 最も困難なチャレンジを選ぶ勇気
簡単な道ではなく、困難な道を選ぶこと。それが信仰の証しです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。(ヘブル人への手紙11章6節)
5. 周りに流されない
カレブの周りの世代は、不信仰のゆえに荒野で死にました。しかしカレブは、周りに流されませんでした。
まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。(コリント人への第一の手紙15章33節)
カレブは、良い信仰を保ち続けました。
6. 神様への信頼が力の源
「主がわたしと共におられて」。これがカレブの秘訣でした。自分の力ではなく、主の力。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(ピリピ人への手紙4章13節)
7. 次の世代への責任
カレブは自分のためだけに戦ったのではありません。子孫のため、次の世代のために戦いました。
私たちも、自分の信仰を次の世代に伝える責任があります。
カレブという名前の意味
| 【原語のポイント】カレブ(כָּלֵב) カレブという名前は、ヘブライ語の כֶּלֶב(ケレヴ/犬)と同じ子音で書かれます。古代の近東では、「犬」は主人に仕える者の謙遜な自称としても使われました(サムエル記下9章8節で、メピボセテが自分を「死んだ犬のようなわたし」と呼んでいます)。 また、כֹּל לֵב(コル・レーヴ/全き心)から来ているという説明も、古くから語られてきました。こちらは語源としては後代の連想ですが、聖書がカレブについて繰り返し「全く従った」と証言していることを思うと、実に味わい深い連想です。 犬のように、主人に忠実に。そして、心を尽くして、主に従う。これがカレブの生き方でした。 |
民数記14章24節で、主はカレブについて「違った心をもっていて」と言われました。
これこそが、カレブを特別にしたものです。
周りが恐れる時も、カレブは信じました。
周りがつぶやく時も、カレブは従いました。
周りが妥協する時も、カレブは主に忠実でした。
私たちへの問いかけ
八十五歳のカレブが巨人に立ち向かう姿を見て、私たちは問われます。
あなたは何歳ですか。そしてあなたの「巨人」は何ですか。
若い人へ:年齢を言い訳にしていませんか。「まだ若いから」と。カレブは四十歳の時から信仰を貫きました。
中年の人へ:疲れて諦めていませんか。「もう遅い」と。カレブは八十五歳で新しい戦いを始めました。
高齢の人へ:引退したいと思っていませんか。「もう十分やった」と。カレブは最後まで戦い続けました。
あなたの「ヘブロン」は何ですか。
あなたが神様から受けるべき嗣業は何ですか。あなたが立ち向かうべき「巨人」は何ですか。
恐れてはいけません。主が共におられます。
カレブは言いました。「しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」。
あなたも、同じことを言えます。主はあなたと共におられます。
年齢に関係なく。状況に関係なく。過去の失敗に関係なく。
全く主に従う者を、主は祝福してくださいます。
こうしてこの地に戦争はやんだ。(ヨシュア記14章15節)
カレブの戦いは終わりました。彼は勝利しました。
あなたの戦いも、主が共におられるなら、必ず勝利で終わります。
比較のために、アブラハムへの約束の範囲も見ておきましょう。
【図解3】アブラハムへの約束(創世記15章18-21節・詳細版)
アブラハムへの約束の地
創世記15章18-21節
「エジプトの川から、かの大川ユフラテまで」
創世記15章18-21節
その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。
約束された範囲
- 西の端:エジプトの川
- 東の端:大川ユフラテ(現在のイラクを流れる大河)
- 東西の距離:およそ1,200km
【原語のポイント】「エジプトの川」は二種類ある
創世記15章18節の「エジプトの川」は נְהַר מִצְרַיִם(ネハル・ミツライム)。נָהָר(ナハル)は「大河・恒常河川」を指すことばで、同じ節の「大川ユフラテ」にも使われています。
一方、民数記34章5節の「エジプトの川」は נַחַל מִצְרַיִם(ナハル・ミツライム)。こちらの נַחַל(ナハル)は「涸れ川(ワディ)」、雨季にだけ水が流れる谷川です。
日本語ではどちらも「エジプトの川」ですが、原語はまったく別の単語です。一般に前者はナイル川、後者はシナイ半島北部のワディ・エル・アリシュを指すと考えられています。同じ訳語の裏に、これだけの差があるのです。
実現の歴史
| 民数記34章 | モーセに示された境。アブラハムへの約束より狭く、「当面の目標」として与えられました。 |
| ヨシュア記 | 部分的な征服。主要拠点は取りましたが、まだ多くの地が残されていました。 |
| ダビデ・ソロモン | 最も広い範囲に勢力が及びました。ユフラテ川の近くまで届いています(サムエル記下8章、列王紀上4章21節)。約束に最も近づいた時代です。 |
| 分裂王国以降 | 領土は縮小。バビロン捕囚を経て、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配下に置かれます。 |
| 現代 | 約束された範囲の、ごく一部です。 |
この約束が指し示すもの
- 神様の恵みの広大さ
- 神様の約束の確実さ(段階的であっても、必ず実現する)
- キリストによる全世界の救いの予型(ガラテヤ人への手紙3章8-9節、29節)
- 新しい天と新しい地の約束の、前触れ
「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」(マタイによる福音書5章5節)——この約束は、信じるすべての者に開かれています。
6. まとめ:神様の約束は必ず実現する
ヨシュア記13-14章。地名がたくさん出てきて、読みにくい章かもしれません。
しかし、この章には深い真理が隠されています。
約束と現実のギャップ
この章を読んで、私たちは一つの現実に直面します。
神様は完璧な約束をされた。しかし現実は、まだ不完全だ、という現実です。
- 神様は「この地をあなたがたに与える」と約束された
- でも、まだ完全には征服されていない土地がある
- モーセは東側を分配した。でもヨシュアは「取るべき地は、なお多く残っている」と言われる
- 各部族は自分の嗣業を受け取る。でもまだ戦い続ける必要がある
- カレブは八十五歳で約束を受け取る。でも巨人と戦わなければならない
これは、矛盾でしょうか。神様の約束が不完全だということでしょうか。
いいえ、違います。これこそが、神様の働き方なのです。
「すでに」と「まだ」の間に生きる
神学者たちは、これを「すでに、しかしまだ(Already, but not yet)」と呼びます。
すでに:約束は与えられた。土地は与えられた。勝利は保証されている。
しかしまだ:完全には実現していない。戦いは続いている。成長の過程にある。
これは、私たちの信仰生活そのものです。
私たちの救いについて:
- すでに:キリストの十字架によって、私たちは救われました(エペソ人への手紙2章8節)
- しかしまだ:日々、罪と戦い、聖化の過程を歩んでいます(ピリピ人への手紙2章12節)
私たちの勝利について:
- すでに:キリストはすべての敵に勝利されました(コロサイ人への手紙2章15節)
- しかしまだ:私たちは日々、誘惑や試練と戦っています(エペソ人への手紙6章12節)
神の国について:
- すでに:神の国は来ました。キリストと共に(ルカによる福音書17章21節)
- しかしまだ:完全な神の国は、キリストが再び来られる時に実現します(ヨハネの黙示録21章)
ヨシュア記13-14章は、この「すでに、しかしまだ」の現実を、目に見える形で示しています。
なぜ神様は「段階的」に働かれるのか
神様は一瞬で、すべてを完成させることができます。エリコの城壁を崩したように。紅海を分けたように。
しかし多くの場合、神様は段階的に働かれます。なぜでしょうか。
1. 私たちの成長のため
すべてが一度に与えられたら、私たちは神様を必要としなくなるかもしれません。しかし、常に課題が残されているなら、私たちは毎日、神様に依り頼むことを学びます。
2. 信仰の訓練のため
簡単に手に入るものは、簡単に失われます。しかし、信仰を持って戦い取ったものは、決して忘れません。
イスラエルは各部族が、自分の嗣業で戦うことによって、「この土地は主が与えてくださった」ことを体験的に知りました。
3. 選択の自由を尊重するため
神様は私たちを、ロボットとして造られませんでした。私たちには選択の自由があります。従うか、不従順か。信じるか、疑うか。
イスラエルには選択がありました。残された敵を追い払うか、妥協して共存するか。カレブのように巨人に立ち向かうか、恐れて引き返すか。
その選択によって、結果は大きく変わりました。
4. 次世代への遺産を残すため
もしモーセの時代にすべてが完成していたら、ヨシュアの世代、カレブの子孫には、何も残されていませんでした。
しかし、段階的な成就によって、各世代が神様の約束を経験し、次の世代に伝えることができます。
私たちも同じです。前の世代から受け取り、次の世代に渡す。信仰は、世代から世代へと受け継がれていくのです。まさに「嗣業」です。
それでも約束は確実:四つの確信
ヨシュア記13-14章から、私たちは確信を持つことができます。
1. 神様は決して忘れない
モーセは約束の地の一部を与えました。実現しました。カレブは四十五年前の約束を受け取りました。実現しました。主は「わたしはみずから彼らをイスラエルの人々の前から追い払うであろう」と言われました(13章6節)。必ず実現します。
時には長く待つことがあります。四十五年も。しかし、神様の時は完璧です。
愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(ペテロの第二の手紙3章8-9節)
2. 不完全な状況でも、神様の計画は進んでいる
まだ征服されていない土地がある。それでも分配は始まります。
これは失敗ではなく、神様の計画の一部です。
私たちの人生も同じです。すべてが完璧でなくても、神様は働いておられます。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ人への手紙8章28節)
3. 年齢も状況も、神様の働きを止められない
ヨシュアは老いていました。でも神様は彼を通して働かれました。
カレブは八十五歳でした。でも神様は彼を用いられました。
イスラエルは小さな民でした。でも神様は彼らを通して、世界を祝福する計画を持っておられました。
わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。(コリント人への第二の手紙10章4節)
4. 全く従う者を、神様は必ず祝福される
カレブの人生が証明しています。
四十歳の時、彼は信仰を選びました。周りの十人が恐れる中、彼は信じました。
四十五年間、彼は全く主に従いました。荒野をさまよう中でも、信仰を捨てませんでした。
八十五歳で、彼は報いを受けました。そして今度は、巨人に立ち向かう勇気を示しました。
だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。(ヘブル人への手紙10章35-36節)
私たちの「約束の地」
ヨシュア記13-14章は、過去の歴史だけではありません。これは私たちへのメッセージです。
神様は、あなたにも「約束の地」を用意しておられます。
それは物理的な土地ではないかもしれません。でも、神様が「あなたに与える」と約束してくださった祝福があります。
すでに与えられているもの:
- 救いと赦し(エペソ人への手紙1章7節)
- 神の子とされる特権(ヨハネによる福音書1章12節)
- 聖霊の内住(エペソ人への手紙1章13-14節)
- すべての霊的祝福(エペソ人への手紙1章3節)
まだこれから受け取るもの:
- 品性の成長(ローマ人への手紙5章3-4節)
- 約束された勝利(コリント人への第一の手紙15章57節)
- 永遠の嗣業(ペテロの第一の手紙1章4節)
- 完全な贖い(ローマ人への手紙8章23節)
あなたは今、「すでに」と「まだ」の間を歩いています。
完璧ではありません。でも確実に前進しています。
三つの選択
ヨシュア記13-14章を読んで、私たちには選択があります。
選択1:十人の斥候のように、恐れるか
「確かに良いものだ。でも敵は強い。城壁は高い。巨人もいる。無理だ」。現実だけを見る。困難だけを見る。そして諦める。
選択2:妥協して、残された敵と共存するか
「完全に追い払うのは大変だ。少しくらい残っていても、まあいいか」。戦うのが面倒になる。中途半端で満足する。
選択3:カレブのように、信仰を持って立ち向かうか
「しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、彼らを追い払うことができるでしょう」。困難を見る。でもそれ以上に、神様を見る。そして前進する。
あなたはどれを選びますか。
最後に:主が共におられる
ヨシュア記13-14章の中心メッセージは、これです。主が共におられるなら、不可能はない。
- モーセと共におられた主は、ヨシュアとも共におられました
- ヨシュアと共におられた主は、カレブとも共におられました
- カレブと共におられた主は、あなたとも共におられます
イエス様は言われました。
見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。(マタイによる福音書28章20節)
あなたが直面している「巨人」は何ですか。あなたの「まだ征服されていない地」は何ですか。
恐れることはありません。主が共におられます。
ヨシュアに言われたように、主はあなたにも言われます。
わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。(ヨシュア記1章9節)
そして最後に、14章15節のことばで締めくくりたいと思います。
こうしてこの地に戦争はやんだ。(ヨシュア記14章15節)
カレブの戦いは終わりました。彼は勝利しました。
あなたの戦いも、主が共におられるなら、必ず勝利で終わります。
時には長く待つことがあります。でも神様の時は完璧です。
時には不完全に見えることがあります。でも神様の計画は確実です。
時には困難に見えることがあります。でも神様の力は十分です。
主が約束されたことは、必ず成就します。
それを信じて、今日も一歩前進しましょう。
次回予告:ユダ族の嗣業とダビデへの道
15章からは、ユダ族、エフライム族、マナセ族の嗣業が詳しく語られます。
特にユダ族の嗣業は、後のイスラエルの歴史で極めて重要な意味を持ちます。
なぜなら、そこからダビデが出るからです。そしてダビデの町ベツレヘムも、ユダ族の嗣業にあります。
さらに、エルサレムもユダ族の領域です。ここに神殿が建てられ、ここが神様の臨在の中心となります。
そして何より、救い主イエス・キリストは、このユダ族から、ベツレヘムでお生まれになるのです。
ヨシュア記の土地の分配は、単なる不動産の配分ではありません。これは神様の壮大な救いの計画の一部なのです。
一つ一つの町、一つ一つの境界線が、数百年後、数千年後の出来事につながっています。
神様は、すべてをご計画しておられます。
次回、ユダ族の嗣業を見る時、私たちは神様の驚くべき計画を、もっと深く理解することができるでしょう。
お楽しみに。
【次回】ヨシュア記15章:ユダ族の嗣業〜ダビデとイエス様への道
※聖書引用は口語訳です。他の翻訳との表記の対応はこちらをご覧ください。(https://tehiri-mu.com/bible-translation-notation)

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